承久記 - 33 一院隠岐の國へ流され給ふ事

 七月六日、泰時の嫡子時氏、時房の嫡子時盛、数千騎の軍兵を相具し、院の御所四辻殿に参つて、鳥羽殿に移し奉るべきよし申さる。御所中の男女喚き叫び、倒れ迷ふ女房達を、先ざまに出だし奉り給ふ。時氏これを見て、「御車の内も怪しく候」とて、弓の筈をもて御簾を掻上げ奉る。御用意は尤もさる事なれども余りに情けなくぞ覚えし。
 御供に大宮の中納言実氏、宰相中将信成、左衛門の尉義茂、以上三人ぞ参りける。武士前後を囲み、今日を限りの禁闕の御名残、思ひやり奉るもかたじけなし。同じき八日御出家有る可きよし、六波羅より申し上ぐるに、御髪おろさせ給ふ。法の御諱は良然とぞ申しける。太上天皇の玉体、忽ちに変じて、無下の新発意とならせ給ふ。信実の朝臣を召して、御形を似絵にかゝせ給ひて、七条の女院へ参らせ給ひけり。女院、御覧じもあへず御涙を流させ給ひけり。
 修明門院ひとつ御車にて、鳥羽殿へ御幸なる。御車を大床の際にさし寄せられたり。一院、簾引かさせ給ひて、御顔ばかり指し出ださせ給ひて、御手をもて「帰らせ給へ」とあふがせ給ふ。両女院御目もくれ絶え入りさせ給ふも理なり。御車の内の御嘆き、申すも中々愚かなり。
 同じき十三日、六波羅より時氏・時盛参りて、隠岐の国へ遷し奉るべきよしを申しければ、「御出家の上は、流罪まではあらじ」と思召しけるに、遠き島と聞こし召されて、東西を失はせ給ふぞ忝き。摂籙は近衛殿にて渡らせ給ひけり。「君、防関見となりて留めさせ給へ」と、遊ばされける御書の奥に、
墨染の袖に情けをかけよかし涙ばかりは捨てもこそすれ
 と遊ばされたりければ、摂政の御威徳も、「君の君にて渡らせ給ふ時の、ことなり」とて、嘆き給ひけり。
一院の御供には女房両三輩、亀菊殿、聖一人、医師一人、出羽の前司広房、武蔵の権の守清範とぞ聞えし。去ぬる平家の乱るゝ世には、後白河の院鳥羽殿に遷らせ給ひしをこそ、世の不思議とは申し習はしゝに、今は遠き国へ流されさせ給ふ。先代にも超えたる事共なり。水無瀬殿を過ぎさせ給ふとて、「せめてはここに置かればや」と、思召さるゝも理なり。御心の済むとしもなけれども、御涙のひまにかくぞ思しつづけらる。
立ちこめて関とはならで水無瀬河霧なほ晴れぬ行末の空
 播磨の明石の浦に着かせ給ふ。「此処をば何処ぞ」と御尋ねありければ、「明石の浦」と申しければ、「音に聞く処にこそ」とて、
都をばやみやみにこそ出でしかど今日は明石の浦にきにけり
 亀菊殿
月影はさこそ明石の浦なれど雲居の秋ぞなほも恋しき
 「彼の保元の昔、新院の御軍破れて、讃岐の国へ遷されさせ給ひしも、ここを御通りありけるとこそ聞け。御身の上とは知らざりしものを」と思召す。「それは王位を論じ位を望み給ふ御事なり。これはされば何事ぞ」とぞ思召しける。美作と伯耆の中山を越えさせ給ふに、「向ひの峰に細道あり。何処へ通ふ道にや」と問はせ給ふに、「都へかよふ古き道にて、今は人も通はず」と申しければ、
都人誰踏みそめて通ひけむ向ひの道のなつかしきかな
 出雲の国大浦といふ処に着かせ給ふ。三尾が崎といふ処あり。それより都へ便りありければ、修明門院に御消息あり。
知るらめや憂目を三尾の浜千鳥しましま絞る袖のけしきを
 かくて日数重なりければ、八月五日、隠岐の国海部郡へぞ着かせ給ふ。これなん御所とて、入れ奉るを御覧ずれば、あさましげなる苫葺きの、菰の天上・竹の簀の子なり。自ら障子の絵などに、かゝる住ひ書きたるを御覧ぜしより外は、いつか御目にも懸るべき。只これは生をかへたるかと思召すもかたじけなし。
我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け
 都に、定家・家隆・有家・政経さしもの歌仙たち、この御歌の有様を伝へ承りて、只もだへ焦れ泣き悲しみ給へども、罪に恐れて御返事をも申されず。されども従三位家隆、便宜につけて、恐れ恐れ御歌の御返事を申されけり。
寝覚めしてきかぬを聞きて悲しきは荒磯波の暁の声