承久記 - 01 後鳥羽の院の事

 人皇八十二代の帝をば、隠岐の法皇とも申すなり。顕徳院とも号し奉る。後には後鳥羽の院と申しけり。御諡は高成、高倉の院の第四の御子、後白河の院の御孫なり。御母は七条の院、正三位藤原信隆の卿の娘なり。
 治承四年庚子七月十四日に御誕生、寿永二年癸卯八月廿日、御年四歳にて後白河の法皇の命によつて御践祚あり。元暦元年甲辰七月廿八日、五歳にして太政官の堂にて御即位あり。
 御在位十五年が間、芸能二つを学びおはします。建久九年戊午正月十一日御位をおりさせ給うて第一の御子に譲り給ふ。土御門の院これなり。
 それより以来、怪しの者に御肩をならべ、賤しき下女を近づけさせ給ふ御事もあり。賢王聖主の道をも御学びありけり。また弓を射てよき兵をも召仕はゞやと叡慮をめぐらし、武勇の者を御尋ねありしかば、国々より進み参りけり。
 白河の院の御宇に、北面と云ふものを始めさせ給ふて、侍を玉体に近づけさせ給ふ御事ありき。またこの御時より西面といふ事を始めらる。早業水練にいたるまで淵源を極めまします。弓取つてよからむ勇士十人参らせよと、関東に仰せければ、常陸の筑後の六郎・遠江の原の弥三郎一家に、天野の次郎左衛門尉時継を始めとして、武士六人を参らせらる。相撲の上手同じく参らせよと仰せられければ、その頃岡辺の義介五郎・犬嶽の小太郎家光二人参りけるを、義介をば秘蔵して関東に留め、犬嶽の小太郎を参らせられけり。
 かくて十三年を経て、承元四年庚午十一月廿五日に一の御子御位をおろし奉り、第二の御子を御位に立てまゐらせ給ふ。順徳院これなり。これ当腹御寵愛によつてなり。その後十一年を経て、承久三年四月廿日、また御位をおろし奉りて新院の御子に譲り奉り給ふ。
 これによつて新院とも、法皇の御仲ご不快なり。御在位四ケ月に及ばずして、御位後堀河の院に参りて、王法つきはてさせ給ひ、人臣世に叛きし故を如何にと尋ぬるに、地頭・領家争論の故とぞ聞えける。
 上古には地頭といふ事なかりしを、故鎌倉の右大将頼朝卿、平家を亡ぼしける勧賞に、文治元年の冬のころ、日本国の総追捕使になり給ふ。その後建久三年七月に征夷大将軍に補し給ふ故に、国々に守護を置き郡郷に地頭を居ゑ、既に五升宛の兵粮米を宛て取る。これによつて領家は地頭を嫉み、地頭は領家を軽めけり。