承久記 - 02 頼家実朝昇進并びに薨去の事

 頼朝は伊豆の国の流人たりしが、平家追討の院宣を蒙りて、治承四年の秋のころ、謀叛を起して六ケ年の間天下安からず。元暦二年の春夏のころ、平家を亡ぼしはて、静謐に属する事十三年、世を執る事十九年なり。
 廿年と申す正治元年正月十三日に五十三歳にして卒し給ふ。その御子左衛門の督頼家、世を継ぎ給ふ。御母は従二位政子、遠江守平時政の娘なり。童名は十万殿と号す。
 建久八年十二月十五日に従五位上に叙し、同じき日右少将になり給ふ。御年十六歳なり。同じき九年正月卅日讃岐の権の佐に任じ給ふ。同じき十一月廿八日正五位下に除す。同じき十年改元あつて正治と号す。正月廿日左中将に転ず。御年十八歳なり。同じき廿六日に諸国の事を奉行すべきよし宣下し給ふ。正治二年正月五日従四位上に叙し、同じき八日禁色をゆるさる。同じき十月廿六日従三位に叙し、左衛門の督に任じ給ふ。御年十九歳なり。同じき七月廿二日従二位に叙し、同じく征夷大将軍たり。
 同じき三年七月廿七日、病を受け給ふ間、同じき八月廿七日に御跡を長子一幡殿に譲り給ふ。御年六歳なり。同じき九月七日出家し給ふ。同じき廿九日に伊豆の国修善寺に移り給ふ。この将軍世を知り給ふ事、正治元年より建仁三年に至るその間五ケ年なり。二代の将軍として世を継ぎ給ふと雖も、不調の振舞ひをし給ひしかば、神慮にも放たれ人望にも背く故に、僅かに五箇年が内に、元久元年七月十九日、大祖遠江守時政が為に亡ぼされ給ひけり。御年廿三歳なり。
 ここに御弟万寿御前、未だ幼童にて長兄の御後を継ぎ給ふ。建仁三年九月七日に御年十二歳にて従五位に叙し、同じき日征夷大将軍の宣旨をくださる。同じき年十月廿四日に右兵衛佐に任じ給ふ。御年十三にて御元服あり。右兵衛の権佐実朝と申しき。
 同じき四年改元有りて元久と言ふ。正月五日従五位上に叙し、元久二年正月五日正五位下に叙し給ふ。同じき廿九日右中将兼加賀介に任ず。同じき三年改元ありて建永と号す。二月廿二日従四位下に除す。二年に改元あつて承元と言ふ。正月五日従四位上に除す。承元二年十二月九日正四位下に除す。同じき三年四月十日従三位に叙し、同じき五月廿六日右中将に復任す。同じき五年改元あつて建暦と号す。正月五日正三位に叙し、同じき十八日美作の権守に任ず。建暦二年十二月十日従二位に叙し、同じき三年改元あつて建保といふ。二月廿七日正二位に叙し、同じき四年六月廿日権中納言に任ず。中将もとの如く、随身四人を給ふ。御年廿四歳なり。同じき六年正月十三日権大納言に任じ、同じき三月六日左大将に任ず。道家の卿のあとなり。同じき日左馬寮の将監たり。同じき十月九日内大臣に任ず。大将元の如し。同じき十二月二日右大臣に任じ給ふ。大将元の如し。これ公房公のあとなり。同じき七年四月十二日改元あつて承久と号す。正月に大饗行はる可しとて尊者の為に、坊門の大納言忠信卿を関東に招請すべきよしとの聞えあり。
 この事公卿僉議有りけるに、按察使の中納言光親卿申されけるは、「そもそも例を往代に尋ぬるに及ばず。実朝が親父頼朝右大将拝任は、即ち上洛をとげ格式の如し。なんぞ実朝自由にその身関東に在りながら、結句卿相を辺愁の堺に下して拝賀をすべしや、百官を王庭に定められてよりこの方、未だかゝる例を聞かず」と申されければ、その時の摂政は後京極殿にてましましけるが、仰せられけるは、「光親卿の意見条々その謂れ有り。但し何とも只実朝が申すままに御許し有るべしと覚ゆ。旧規を乱り格式に違せば、官職は私にあらず、神慮も計らひあるべし」と仰せありければ、各々この議に同じ給ひけり。
 同じき正月廿七日、将軍家、右大将拝賀の為に鶴が丘の八幡宮へ御社参あり。酉の刻に御出でありけるに、先づ牛飼ひ四人、次に舎人四人、次に一員。将曹狩野の景盛・府生狛の盛光・将監中原の成能、以上束帯なり。次に殿上人には、一条の侍従能氏・藤兵衛の佐頼経・伊予の少将実雅・右馬の権守頼範の朝臣・中宮権の亮信能の朝臣随身四人なり。一条の大夫頼氏・一条の少将能房・前の因幡の守師憲の朝臣・伊賀の少将隆経の朝臣・文章博士仲章の朝臣なり。
 次ぎに前駆藤勾当頼方・平勾当時盛・前の駿河の守季時・左近大夫朝親・相模の権守実定・蔵人の大夫以邦・右馬の助行光・蔵人の大夫邦忠・右近の大夫時広・前の伯耆守親時・前の武蔵の守義氏・相模の守時房・蔵人大夫重綱・左馬の権佐範俊・右馬の権助宗泰・武蔵の守親広・修理権大夫惟義の朝臣・右京権大夫義時の朝臣。
 次に官人秦の兼光・番の長下毛野の敦秀。次に御車・同じく車添四人・牛童一人。次ぎに随兵二行なり。小笠原の次郎兵衛長清、小桜縅の鎧を着す。武田の五郎信光、黒糸縅の鎧を着す。伊豆の左衛門尉頼定、萌黄糸縅の鎧を着す。隠岐の左衛門の尉基行、緋縅の鎧を着す。大須賀の太郎道信、藤縅の鎧を着す。式部の大夫泰時は、小桜縅の鎧を着す。秋田の城介景盛、黒糸縅の鎧を着す。三浦の小太郎時村、萌黄糸縅の鎧を着す。河越の次郎重時、緋縅の鎧を着す。隠岐の次郎景員、藤縅の鎧を着す。
 次に雑色廿人。次に検非違使の大夫判官景廉、束帯鞘巻の太刀なり。次に御調度掛、佐々木の五郎左衛門尉義清。次ぎに下臈御随身波多野の公氏・同じく兼村・播磨の貞文・中臣の近任・下毛野の敦光・同じく敦氏。
 次に公卿には、新大納言忠信・左衛門督実氏・宰相中将国通・八条三位光盛・刑部卿三位宗長各々乗車なり。
 次に左衛門の大夫光員・隠岐守行村・民部の大夫広綱・壱岐守清重・関の左衛門尉政綱・布施の左衛門尉康定・小野寺の左衛門尉秀道・伊賀の左衛門尉光季・天野の左衛門の尉政景・武藤の左衛門尉頼範・伊東の左衛門尉祐時・安立の左衛門尉元春・市河の左衛門の尉祐光・宇佐美の左衛門の尉祐政・後藤の左衛門の尉基綱・宗の左衛門の尉高近・中条の左衛門の尉家長・讃岐の左衛門の尉正広・源の四郎右衛門の尉秀氏・塩屋の兵衛の尉朝業・宮内の兵衛の尉公氏・若狭の兵衛の尉忠秀・綱島の兵衛の尉俊久・東の兵衛の尉重胤・土屋の兵衛の尉宗長・堺の兵衛の尉常秀・狩野の七郎光広等なり。路次の随兵一千余騎なり。
 宮寺の楼門に入らしめ給ふ時、右京の大夫義時、俄に心神違例の事ありて、御剣を仲章の朝臣に譲りて罷り去り給ふ。神宮寺御解脱の後に於て、小町の御亭に帰らしめ給ふ。夜陰に及びて神拝の事畢つて、やうやう罷り出でんとする所に、何処よりともなきに、女房中の下馬の階の辺より、薄衣きたるが、二三人程走るとも見えし。いつしか寄りけん。石階の間に窺ひきたりて、薄衣うちのけ、細身の太刀を抜くとぞ見えし。右大臣殿を斬り奉る。一の太刀をば笏にてあはさせ給ふ。次の太刀にて、斬られ伏させ給ひぬ。「広元やある」とぞ仰せられける。次の太刀に文章博士斬られぬ。次の太刀に伯耆の守盛憲斬られ、疵を被つて次の日死す。これを見て一同に、「あ」とばかり戦慄きけり。供奉の公卿・殿上人はさておきぬ。辻々の随兵、所々のかがり火、東西にあわて、南北に馳走す。その音億千のいかづちの如し。
 その後随兵、宮中に馳せ駕すといへども、讐敵をもとむるに所なし。武田の五郎真先に進めり。或人申しけるは、「上の宮の砌において、別当公暁父の敵を討つのよし名乗られける」とぞ申しける。これによつて各々件の雪の下の本坊に襲ひ至る所に、かの門弟の悪僧らその内に籠つて相戦ふの所に、長尾の新六定景、子息太郎景範、同じく次郎種景等、先駈けを争ひけり。勇士の戦場に赴くの法、誠にもつて美談たり。つひに悪僧等敗北す。公暁はこの所に居給はざりければ、軍兵ども空しく退散す。諸人茫然たる外なし。
 ここに公暁は彼の御首をもちて、後見の備中が宿所に向はれけり。雪の下の北谷の膳をたたちせんの間も、なほ手に御首をば離し給はず。公暁のたまひけるは、「我専ら東関の長に当る。早く計議を運らすべきよし」示し合せられけり。これは義村の息男駒若丸、門弟に列するによつて、その誼を頼まれし故なり。
 義村この事を聞きて、先君の恩化を忘れざるの間、落涙数行、さらに言語に及ばざりけり。少しさへぎつて、「先づ茅屋に光臨あるべし。御迎の兵士を参らすべきのよし」をぞ申しける。使者罷り去つて後、また使者を遣はし、件の趣を右京の大夫に申されけり。
 さても公暁は、かく誅し奉るべき企図をば知り給はず。左右なく阿闍梨を誅し奉るべきのよし下知し給ふの間、一族等を招き集めて、評定をこらす。「それ阿闍梨といふは、太だ武勇にたんぬ。すなほにあらざるなり。人たやすくこれを計らふべからず。頗る難儀たるよし」、各々相議する所に、義村は勇悍の器を選んで、長尾の新六定景討手立たれけり。定景辞退に及ばず座を立つて黒糸縅の鎧を着し、雑賀の次郎とて大強力の者あり、これら以下郎従五人相具し、公暁の在所備中阿闍梨の家に赴きけり。
 折節公暁は、義村が迎の兵士延引せしむる間、鶴が丘の後面の峯にのぼつて、義村が家にいたらんとし給ひける所に、定景と途中にて行遇ひ給ひけり。雑賀の次郎寄つてかゝり、たちまちに公暁を抱く。互に雌雄を争ふ所に定景太刀をとつて、公暁の御首を斬り奉る。素絹の衣の下に腹巻を着給ひけり。生年二十歳なり。
 そもそもこの公暁と申すは、右大将頼朝の卿の御孫、金吾将軍頼家の卿の御息なり。御母は加茂の六郎重長のむすめなり。公胤僧正の家に入りて、貞暁僧都受法の御弟子なり。若宮の別当悪禅師の公と号す。無慚なりしことどもなり。
 御父頼家の卿、御後を長子一幡殿に譲り給ふ所に、建仁二年九月に伯父北条平の時政が沙汰として義時を大将軍として発行せしめ、これを討ち奉る。この時御年六歳なり。叔父比企の判官藤原の能員が郎党百余人、防ぎ戦ふといへども叶はずして各々自害してけり。これによつて右大臣殿に於ては、親兄の御敵なれば今度かゝる謀反を企て給ひけり。
 このほか連枝あり。同じく別当栄実とて、昌寛法橋の娘の腹の御子おはします。童名をば千手殿とぞ申しける。これをも同じき年の十月六日に討ち奉りけり。
 同じき御腹に禅暁とて、童名千歳殿とぞ申しけるは、承久二年四月十一日討たれたまへり。また木曾義仲の娘の腹に竹の御方とておはします。これは頼経将軍の妻室になり給ふ。
 去る程に定景は彼の御首を持ちて帰り、即ち義村、右京の大夫の御廷に持参す。亭主出であひてその御首を見らる。安東の次郎忠家紙燭を秉り、ここに式部の大夫申されけるは、「まさしく未だ阿闍梨の面を見奉らず。なほ御首に疑ひあり」とぞ申しける。
 そもそも希有の凶事、かねて本意をしめす事、一つに非ず。所謂御出立の期に及びて、前の大膳の大夫入道参じて申しけるは、「某は成人の後、未だ泣涙の面に浮く事を知らず。しかるに今時昵近申すの所に、落涙禁じがたし。これ只事にあらざるなり。事定めて仔細あるべきか」。また公氏御髪を候する所に自ら御髪を一筋ぬいて、次に庭の梅を取りて禁忌の和歌を詠じ給ひけり。
出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
となん。門を御出のとき霊鳩鳴囀す。車よりおり給ふきざみは、雄剣を突き折り給ひけり。
 同じき二十八日御台所落飾せしめ給ふ。御戒の師は荘厳坊の律師行勇なり。また武蔵の守近広、左衛門の大夫時広、前の駿河の守秀時、秋田の城介景盛、隠岐の守幸村、大夫尉景廉以下、御家人一百余人。薨去の哀傷にたへずして、出家をとげらるなり。戌の刻には将軍家勝長寿院の傍らに葬し奉る。去ぬる夜、御首のある所を知らざりければ、五体不具その憚あるべきによつて、昨日公氏候する所の御髪をもつて御頸に用ひ棺に入れ奉りけり。
 さてもこの世の中如何になるべきぞ、実に闇の夜に燈火を失へるに異ならず。鎌倉殿には誰をか据ゑ参らすべきとぞ申しける。去る程に公卿殿上人は空しく帰りのぼり給ふ。駿河の国浮島が原にて、帰雁おとづれて行きければ、左衛門の守実氏の卿
春の雁の人にわかれぬならひだに帰る路にはなきてこそゆけ
 同じ年の二月八日右京の大夫義時、大倉の薬師堂に詣で給ふ。この寺は霊夢の告げによつて草創の地なり。去ぬる月の二十七日戌の刻供奉のとき、夢見るが如くに白き犬御側らにま見えて後、心神悩乱の間御剣を仲章の朝臣に譲りて、伊賀の四郎ばかりを相具して罷り出で給ふ。しかるに右京の大夫御剣の役たるのよし、禅師かねてもつて存知の間、その役、人をまぼつて、仲章が首を斬り給ふ。当時この堂の戌神堂中に坐し給はずと申しけり。
 さても公暁は今度の企図のみにあらず、この両三年が間御所中に化け物とて女の姿をして行きいり給ふに、極めて足早く身軽くしてしばしばまみえ給ふを人見けり。今こそ、この人の仕業なりとぞ思ひあはせける。御父には四歳にておくれ給ひしをば、二位殿育み奉りて若宮の別当になり給ひけり。
 また同じき年二月十五日の未の刻に二位殿の御帳台の内へ、鳩飛びいる事ありけり。かゝる所に同じき日の申の刻に、駿河の国より飛脚参りて申して曰く、「阿野の次郎冠者頼高、去ぬる十一日より多勢を引率して城郭を深山に構ふ。これ即ち宣旨を申したまはつて、東国を管領すべきのよし相企つ」とぞ申しける。これは故右大将家の御弟、阿野の前司全成の次男なり。母は遠江の守平の時政が娘なり。
 同じく十九日二位殿の仰せによつて、義時、金が窪兵衛の尉行親以下の家人等を駿河の国へさつしかはす。阿野の冠者誅戮の為なり。同じき二十三日駿河の国より飛脚参着して、阿野の冠者禦ぎ戦ふといへども無勢なれば叶はずして自害するのよしをぞ申しける。かくて東国は無異になりにけり。
 さても将軍の後嗣絶え果て給はん事を悲しみ思ひ給ふ。二位殿の沙汰として、光明峯寺の左大臣道家公の三男頼経の卿を申し下し給ひ、源家の将軍の後嗣をつがしめ給ひけり。これによつて二位殿の代りとして義時天下の執権たりき。
 また都には、源三位入道の孫右馬権守頼茂とて内裏の守護にてありけるを、これも源氏なる上、頼光が末葉なりと思し召して、西面の者どもに仰せて、させる罪なきを討たせられける。同じく子息頼氏を生捕られけるこそ不憫なれ。陣頭に火をかけて自害してけり。温明殿に付きてけり。内侍所如何なり給ひけんとおぼつかなし。