およそ院、如何にもして関東を亡ぼさんとのみ思し召しけることあらばなり。京童を集めさせ給ひて、ぎじちやうとうぎじちやうとうと唱へとて物を賜はりければ、さなきだに漫言云ふに、ぎじちやうとうぎじちやうとうとぞ申しける。
これは義時の首を討てといふ文字の響きなり。また年号を承久とつけられたるも深き心あり。その上南都・北嶺に仰せて、義時を呪詛し給ふ。三条白河に寺を建て、最勝四天王寺と名付けて四天王を安置し、障子に詩歌を詠ぜさせらる。実朝討たれ給ひぬと聞こし召して、俄にこの寺をこぼたれぬ。調伏の法成就すれば破却する故なり。
六条の宮を鎌倉に据ゑ奉らんと思し召しけるが、京・田舎に二人の聖主悪しかるべしとて止めたまひけり。九条の左大臣道家公の三男、二歳にならせ給ふを、将軍に定めさせ給ひけり。これは鎌倉殿の御妹婿一条の二位の入道能保の卿の御娘、九条殿の北の政所にてましませば、その御由縁なつかしさに、義時申し下しけるとぞ聞えし。
承久元年六月二十五日に京を立たせ給ひて、同じき七月十九日関東に下着。たちまちに槐門太閤の窓を出でて、軍監亜相の扃に留まり給ふ。そもそも右京の大夫兼陸奥の守平の義時は、上野の守直方が五代の末葉北条の遠江の守時政が嫡子、二位殿の御弟、実朝の御叔父なり。権威重くして国郡に仰がれ、心正しくして王位を軽くせず。
ここに信濃の国の住人に、仁科次郎盛遠といふ者あり。十四五になる子二人もちたり。存知の旨あるによつて元服もさせず。折節院熊野参詣の路にて参りあひ、やがて見参に入奉り、しかじかと申しければ、即ち西面に参るべきよし仰せ下されけり。悦びをなし父盛遠も参る。
義時伝へ聞いて、「関東御恩の者が義時に案内を経ずして、左右なく京家奉公の条、はなはだ以て奇怪なり」とて、盛遠が所領五百余町没収しをはんぬ。盛遠このよしを院へ申しければ、還し付くべきよし義時に院宣を下さる。御請文には還すべきよし申しながら、即ち地頭を据ゑられけり。院、奇怪なりと御気色斜めならず。
またその頃、京に亀菊といふ白拍子あり。院、御心ざし浅からずして、摂津の国倉橋の庄といふ所をぞ賜はりける。彼の所は関東の地頭あり。ともすれば、鼓打ちどもを散々にしける間、院に訴へ申しければ、地頭改易すべきよし院宣をなさる。義時御請文に、「彼の庄の地頭は故右大将の御時、平家追討の恩賞なり。命に代り功を積みて賜はりたる所なり。義時が私のはからひにあらず」と申しければ、「それはさる事なれども、当時罪科によつて改易することなり。ただ没すべきよし」重ねて仰せくだされけれども、「なほもつて叶ひ難きよし」御請け申しけり。
一院日比の御憤りに、盛遠・亀菊そそのかし申しける間、いよいよ御腹立てさせ給ひて仰せられけるは、「そもそも右大将頼朝を鎌倉殿となす事、後白河の法皇の御許しなり。率土の王土は皆これ朕がはからひなり。然るを義時、過分の所存に任して院宣違背申すこそ不思議なれ。天照大神・正八幡もいかで御力を合せ給はざるべき」とて、内々仰せ合せられける人々には、坊門の大納言忠信・按察使の中納言光親・中御門中納言宗行・日野の中納言有雅・甲斐の中将範盛・一条の宰相義宣・池の三位光盛・刑部卿の僧正長厳・二位の法印尊長、武士には能登の守秀康・三浦の平九郎判官胤義・仁科の次郎盛遠・佐々木の弥太郎判官高重等也。
これは皆義時を恨むる者共なりければ、神妙の御計ひなりとぞ申しける。摂政・関白等など位重き人には仰せ合せられず。寄々聞き給ひて、「思し召さるゝは理なり。然れどもただ今天下の大事出できて、君も臣もいかなる目をか見給はん」と恐れまします。
一院、秀康を召して、「先づ胤義が許にゆきて、所存の旨を尋ねよ」と仰せありければ、秀康が宿所に胤義を招いて、「そもそも御辺は鎌倉の奉公を捨てゝ、公家に奉公、如何様の御心にて候ふぞ」と尋ねければ、「胤義が俗姓、人皆知ろし召されたる事なれば、今更申すに及ばず。故右大将家をこそ重代の主君にも頼み奉りしが、この君におくれ奉りて後、二代の将軍を形見に存ぜしに、これにも別れ奉りて後は、鎌倉に胤義が主とて見るべき人があらばこそ別の所存なし。大抵みなこれなるべきに、次ぎに胤義が当時相具して候ふ女は、故右大将殿のとき、一品房と申しゝ者の娘なり。頼家の督の殿に召されて若君一人儲け奉りしを、若宮の禅師公の御謀反に同意しつらんとて、義時に誅せられけり。この故に、鎌倉に居住して、つらき事を見じと申す間、かつは心ならぬ奉公仕るなり」とぞ申しける。
秀康、「実に恨み深きも理なり。義時が振舞ひ過分とも愚かなり。如何にして亡ぼすべき」といひければ、胤義重ねて申しけるは、「京・鎌倉に立ち別れて合戦せんずるには、如何に思ふとも叶ひ候ふまじ。謀をめぐらしてはなどか御本意をとげざるべき。胤義が兄にて候ふ義村は、謀事人に勝れて一門はびこつて候。義時が度々の命に代りて、心安き者に思はれたり。胤義内々消息をもつて、『義時討つて参らせ給へ。日本国の総御代官は疑ひあるべからず』と申すものならば、余の煩ひになさずして、安らかに討つべき者にて候ふ」と申しければ、うち首肯いて、「げにも然るべし」とて、秀康御所へ参りてこのよしを奏す。
一院、胤義を小坪に召して、御廉を巻きあげさせ給ひて、密々に直に御ものがたりあり。胤義が申す条先の如し。頗る叡感をすすめ奉る。既にこの事思し召したちて、秀康に仰せて近江の国信義を召さる。鳥羽の城南院の流鏑馬の為にと披露す。承久三年五月十四日、在京の武士・畿内の兵士ども、高陽院殿に召さる。内蔵の権の守清範、交名を注す。一千五百余騎とぞ記したる。
先づ巴の大将公経を召さる。余の御気色も覚束なく思ひ給ひてければ、後見に主税の頭長平を召して、「伊賀の判官光季が許に馳せ行きて申すべし。三井寺の悪僧実明等を召され、そのほか南都・北嶺・熊野の者ども多く催さる。いかさま仔細のあらんずると覚ゆるなり」
公経召されてただ今院参す。「重ねて告げしらせん時院参すべし。左右なく参るべからず」とぞ仰せ遣はされける。大将殿参られければ、二位の法印尊長うけたまはりて、公経の卿の袖をとりて引き、馬場矢殿におしこめ奉る。これは御謀反を領掌せず、如何にも関東亡ぼしがたきよし、御謀反に与せざるによつてなり。いまの西園寺の先祖これなり。さてこそ関東には西園寺の御子孫をば、かたじけなき事にはし奉りけれ。子息中納言実氏の卿同じく召し籠められけり。