閏十月十日、土御門の中の院、土佐の国へ移されさせ給ふ。この院は今度御くみなし。その上賢王にて渡らせ給ひければ、鎌倉よりも宥め奉りけるを、「我忝くも法皇を配処へやり奉りて、その子として華洛にあらん事、冥の照覧憚あり。また何の益かあらんや。承元四年の恨みは深しと雖も、人界に生を受くる事は、父母の恩報じても報じ難し。一旦の恨みに依て、永く不孝の身とならんこと罪深し。されば同じき遠島へ流れん」と、度々関東へ申させ給ひければ、惜しみ奉りながら、力なく流し奉りけり。
内々に皆父を恨み給ひけれど、誠の時は、いろはせ給はねど、父の御罪に遠国へ下らせ給ふぞ哀れなる。庁使万里の小路の御所へ参りければ、御叔父土御門の大納言定通卿、泣き泣き出だし奉る。御供には女房四人、少将定平、侍従俊平、医師一人参りけり。鳥も告げければ、大納言定通、御車寄せられけり。これは思召し立つ道も一入哀れなれば、京中の貴賤も悲しみ奉ること限りなし。
室より御船に乗せ奉り、四国へ渡らせ給ふ。八島の浦を御覧じて、安徳天皇の御事を思召し出だしけり。讃岐の松山かすかに見えければ、彼の崇徳院の御事も思召し出だしたり。土佐へ御着きありけるを、「小国なり。御封米難治のよし」守護並びに目代申ければ、阿波の国へ遷されさせ給ふ。山路にかゝらせ給ふ折節、雪降りて東西見えず、誠に詮方なくて、君も御涙に咽ばせましまして、
うき世にはかゝれとてこそ生れけめ理知らぬ我涙かな
と遊ばす。京にて召し使ける番匠、木に登り枝をおろして、御前に焼きたりければ、君も臣も御心少しつかせ給ひて、「番匠大功の者なり」とぞ仰せける。御輿かき少し働きて、彼国へ着かせ給ふ。
浦々に寄するさ波に言問はん沖の事こそ聞かまほしけれ
そもそも承久如何なる年号ぞや。玉体悉く西北の風に没し、卿相皆東夷の鉾先に当る。天照大臣・正八幡の御計ひなり。王法この時に傾き、東関天下を行ふべき由緒にてやありつらん。御謀反の企ての始め、御夢に黒き犬、御身を飛び越ゆると御覧じけるとぞ承る。かく院のはてさせ給ひしかども、四条の院の御末絶えたりしかば、後の後嵯峨の院に御位参りて、後の院と申す。土御門の院の御子なり。御恨みはありながら、配所に向はせ給ひき。この御心ばせを神慮もうけしめ給ひけるにや。御末めでたくして、今の世に至るまで、この院の御末かたじけなし。承久三年の秋にこそ、物の哀れを留めしか。
承久記 終


