五月晦日に、東国よりの大将相模の守・武蔵の守、遠江の国橋本に着きたる日、京方下総前司の郎等筑井四郎太郎高重と云ふ者、その時分東国へ下りけるが、この事を聞きて馳上るに、大勢に道は取られぬ。逃れ行くべき様なくて、先陣の勢に紛れて橋本に着きにけり。今は遁ればやと思ひて立上がり、馬の腹帯強くしめ、高師の山に打上げ歩ませ行く。その勢十九騎なり。
相模の守これを見給ひて、「この勢の内に時房に案内を経ずして馳行くこそ怪しけれ。止めよ」と宣へば、遠江の国の住人内田四郎申しけるは、「駿河の前司の申され候ひし『御方の大勢の中に、京方定めてあるらん。道々・宿々御用心あるべし。若気の御事、御心許なきぞ』と申され候ひつるものを」と云ひもあへず、鞭を挙げて追ひかくる。
内田兄弟六旗、新次郎・弥太郎・新野右馬允六十騎にて追ひかくる。筑井これをば知らず打過ぎ打過ぎ行く程に、音羽河といふ河端に岡のありけるに下り居て、「今は何事か有る可き」とて、馬の足休ませて居たる所に、甲着たる者けはしげに来たる。「何様にも高重止めに来る者と覚えたり」とて、傍らに小屋のありけるに入つて物具する処に、内田おし寄せて、「この家に籠りつるは何処の住人。交名をば如何様の人にておはするぞ。大将の仰せを蒙りて、遠江の国の住人内田の四郎等参りたり」と言ひければ、筑井進み出で打ち笑ひて、「兼ねてはよも知り給はじ。佐々木の下総の前司盛綱の郎等に筑井の四郎太郎平の高重と申す者ぞ。彼の大勢を敵にして、京方に参らんとするより、かゝること案の内なり」とて、内田六郎が胸板かけず本筈はぎの隠るゝまで射たりければ、少しもたまらず落ちにけり。
これを見て六十余騎、少しもひるまず駈け入りけり。安房の国の住人郡司の太郎と言ふ者、小屋に入りければ、高重弓を打捨てゝ組み合ひけるが、刺し違へてぞ死にける。高重が郎等七人は共に討たれにけり。残る十二騎、逃ぐるかと見る処に、さは無くて大勢の内に入り、一騎も残らず討たれにけり。十九人が首一所に懸けてけり。その後、相模の守・武蔵の守通り給ひてこれを見て、主従共に大剛の健なる者哉とぞ感じ給ひける。