院は、「押松が申し条さこそあるらん。臆す可からず。縦ひまた、味方に志あらん者も、鎌倉出をば義時方とこそ名乗らめ。日月は未だ地に堕ち給はず。早く身方よりも討手をも向べし。北陸道には仁科の次郎盛遠・宮崎の左衛門尉定盛・糟屋の右衛門尉有久、都合一千余騎を下し遣はしゝかば、重ねて差下すに及ばず。海道・仙道二の道に討手を下すべし」とぞ仰せける。
胤義・広親以下の兵ども、各々存知の旨を申すべきよし仰下されけり。中にも山田次郎重忠進み出でて申しけるは、「敵の近付かぬ先に、味方より院々・宮々を大将として、敵の会はん処まで御下し候はゞ、その内の国々は身方に参り候べし。この義悪しく候はゞ、宇治・勢多を固められて、人馬の足を労らかして、静かに都にて御合戦有つて、若し王法尽きさせ給はゞ、各々陣頭にて腹を切り名をとめ、骸を埋むべし」と、詞を放ちてぞ申しける。
院聞こし召され、「この両条に過ぐべからず。但し今は敵近江の国に入りぬらん。討手を差向くとも、幾程の国を従へん。宇治・勢多を固めて、都にての合戦も心せはし。只々敵の合はん処まで発行すべきよし」仰下さる。胤義、「この御計ひ然るべし」とぞ申しける。重忠ばかりは領掌申さず呟きける。
秀康合戦の総奉行にて、胤義・盛綱・重忠以下、六月三日卯の刻に都を立つて、同じき四日尾張河に着きて手々を別つ。大炊渡は仙道の手なり。この手に修理大夫惟義・その子駿河の大夫の判官維信・筑後の六郎左衛門・糟屋の四郎左衛門尉久季・西面の者少々、その勢二千余騎。宇留間の渡には美濃の目代帯刀左衛門尉・神地の蔵人入道二千余騎。池瀬には朝日の判官代頼清・関の左衛門尉政安一千余騎。板橋には土岐の次郎判官代光行・海泉の太郎重国一千余騎。大豆戸は大手とて、能登の守秀康・三浦の平九郎判官胤義・山城の守広綱・佐々木の下総前司頼綱・同じく弥太郎判官高重・安芸の宗内左衛門・加賀美の右衛門尉久綱・弥二郎左衛門盛時・足助の次郎重成、西面輩少々相具し一万余騎。薭島には長瀬判官代・重太郎左衛門入道五百余騎。志岐の渡には、安芸の太郎入道・臼井の太郎入道・山田の左衛門尉五百余騎。墨俣には河内の判官秀澄・山田の次郎重忠・後藤の判官基清・錦織の判官代義嗣、西面少々相具してその勢三千余騎。市川崎には加藤の伊勢前司光定、伊勢国の住人相具してその勢一千余騎、都合味方の御勢、東国へさし下さるゝ分二万一千余騎に過ぎざりけり。
東国より攻上る処の一方の勢の半分にだにも及ばず。勅命の忝き、弓矢の名惜しくて思ひ切てぞ下りける。院の御旗、赤地の錦にひしと金剛鈴を結ひ付けて、中には不動明王・四天王を表し奉りたる旗十流を、十人に賜はりけり。私の家々の紋の旗さしにそへたり。夥しくぞ見えたりける。