承久記 - 10 義時宣旨御返事の事

 同じく廿七日仙洞の宣旨の御請文に、詞を以て義時申されけるは、「将軍の御後見として罷り過ぎ候に、王位を軽くし奉る事無し。自ら勅命を承る事、是非皆道理のおす処、衆中の評定なり。然るを尊長・胤義らが讒言に付かせましまして、卒爾に宣旨を下され、既に誤り無きに朝敵に罷りなり候条、尤も不便の至りなり。
「但し合戦を御好み武勇を御嗜み候間、海道の大将に舎弟時房・嫡子泰時、副将軍に義氏・義村・胤綱等を始めとして、十九万八百余騎を差し進ず。仙道より五万余騎、北陸道より次男朝時、四万余騎にて参り候。この方の兵どもに召し向はせて、合戦させて御覧ぜらる可く候。もしこの勢しらみ候はゞ、義時が三男重時に先陣打たせ、義時大将として馳せ参る可く候。その為古入道どもは、少々鎌倉に残し留め候うて、楚忽に馳せ参り候間、今は板東三分一の勢を先とし、余三分二は今日・明日こそ馳せ来たり候らめ」と奏し申すべしとて、旅粮あくまでとらせて追ひ出ださる。
 押松、夢の心地し上りけるが、同じく六月一日酉の刻ばかりに高陽院殿に走り参りて、御壺の内に打伏しけり。君も臣も、「如何に押松物をば申さぬぞ。労れたるか。義時が頸をば、何者がうつて参るぞ。鎌倉には軍するか。また両方支へたるか」と、口々に問ひ給ふ。「余りに苦しく候うて息つき候」とて、暫しあつて申しけるは、
「五月十九日平九郎判官の御使、片瀬河より先立ちて鎌倉に入り、義村に内の消息告げて候へば、承け引きたる顔にて使者をば返し上せ、件の状を義時に見せられて候ひける間、押松搦め出だされて縄を付けられ候ひき。海道・仙道・北陸道大勢上せて後、廿七日の暁追ひ出だされ候。義時かくこそ申され候しが、大勢は廿一日に鎌倉を立ち候ひしかども、遅ればせの勢を待ちて打ちて上り候。余りに大勢にて道も去りあへず。道にまた合戦して上り候間、五日おくれて鎌倉を立つて候へども、かゝる御大事にて候ひし程に、夜も走り候間、大勢より先に参りて候。今ははや近江国へ入り候ひつらん。海道は一町と馬の足の切れたる処候はず。百万騎も候らん」とて、また伏しにけり。これを聞きて皆色を失ひ魂を消す。