承久記 - 09 関東合戦評定の事

 その後入相程に、義時の宿所に会合して、宣旨の御返事・合戦の次第評定あり。駿河の守義村申しけるは、「足柄・箱根を打ちふさぎ支へむとぞ申しける。権大夫殿、この議悪しかりなむ。然らば日本国三分の二は京方になりなんず。ただ明日軈て馳上り、敵の逢はん処を限りにて、勝負を決すべし」とありければ、この御計らひ左右に及ばずとて、一味同心に打立ちけり。
 一陣は相模の守時房、二陣は武蔵の守泰時、三陣は足利の武蔵の前司義氏、四陣は駿河の守義村、五陣は千葉の介胤綱、これは海道の大将たるべし。山道には、一陣小笠原の次郎長清、二陣武田の五郎信光、三陣遠山の左衛門長村、四番生野右馬の入道。北陸道には、式部の大夫朝時を大将にて上るべしと定めらる。
 各々申しけるは、「明日は余りに取敢へず候。今一日延べられて、田舎若党・馬・物具を召寄せて、上り候はゞや」と申されければ、義時大きに怒りて、「謂れなし。いま一日も延ぶるならば、三浦の平九郎判官を先として打手向ひなんず。国々を打取られんこと悪しかりなん。明日は悪日なれば、由比浜に藤沢の左衛門清親が許に門出して、明後日廿一日に発行すべし」と仰せける。
 去る程に、明る日の卯の刻に既に発行す。海道の大将軍には時房・泰時・義氏・義村・胤綱。従ふ兵士には、陸奥の六郎・庄の判官代・里見の判官代義直・城の介入道・森の蔵人の入道・狩野の介入道・宇都宮の四郎頼仲・大和の入道信房・子息太郎左衛門・同じく次郎左衛門・弟の三郎兵衛・孫やくその冠者・駿河の次郎泰村・同じく三郎光村・佐原の次郎兵衛・甥又太郎・天野の三郎左衛門政景・小山の新左衛門朝直・長沼の五郎宗政・土肥の兵衛の丞・結城の七郎左衛門朝光・後藤の左衛門朝綱・佐々木の四郎信綱・長井の兵太郎秀胤・筑後の六郎左衛門友重・小笠原の五郎兵衛・相馬の次郎・豊島の平太郎・国府の次郎・大須賀の兵衛・藤の兵衛の尉武の次郎・同じく平次・澄定の太郎・同じく次郎・佐野の太郎三郎・同じく小太郎・同じく四郎・同じく太郎入道・同じく五郎入道・同じく七郎入道・園の左衛門の入道・若狭の兵衛の入道・小野寺の太郎・同じく中書・下川辺の四郎・久家の兵衛の尉・讃岐の兵衛の太郎・同じく五郎入道・同じく六郎・同じく七郎・同じく八郎・同じく九郎・同じく十郎・江戸の七郎太郎・同じく八郎太郎・北見の次郎・品川の太郎・志村の弥三郎・寺島の太郎・下の次郎・門井の次郎・渡の左近・足立の太郎・同じく三郎・石田の太郎・同じく六郎・安保の刑部・塩屋の民部・加地の小次郎・同じく丹内・同じく源五郎・荒木の兵衛・目黒の太郎・木村の七郎・同じく五郎・笹目の三郎・美加尻の小次郎・厩の次郎・萱原の三郎・熊谷の小次郎兵衛の直家・弟の平左衛門直国・春日の刑部・強瀬の左近・田の五郎兵衛・引田の小次郎・田の三郎・武の次郎泰宗・同じく三郎重義・伊賀の左近の太郎・本間の太郎兵衛・同じく次郎・同じく三郎・笹目の太郎・岡部の郷左衛門・善右衛門の太郎・山田の兵衛の入道・同じく六郎・飯田の右近の丞・宮城野の四郎・子息小次郎・松田・河村・曾我・中村・早川の人々・波多野の五郎信政・金子の十郎・敕使河原の小四郎・新関の兵衛・同じく弥五郎・伊東の左衛門・同じく六郎・宇佐見の五郎兵衛・吉川の弥太郎・天津屋の小次郎・高橋の大九郎・龍瀬の左馬の丞・指間の太郎・渋河の中務・安東の兵衛忠光を先として、その勢十万余騎を差し上す。東山道の大将軍には武田の五郎父子八人・小笠原の次郎父子七人・遠山の左衛門の尉・諏訪の小太郎・伊具右馬の允入道、軍の検見にさしそへられたり。その後五万余騎、北陸道の大将軍には武部大夫朝時、四万余騎相具す。三つの道より十九万余騎ぞ上せられける。