武蔵の守、早馬にて関東へ注進す。合戦の次第、討死、手負ひの交名注文、並びに召し置くところの交名、斬らるゝ武士の交名、このほか院々宮々の御事、月卿雲客の罪障、京都の政あらため、山門南都の次第は、泰時が私に計らひ難し、急速に承りて治定して、帰参すべきよし申しけり。
早馬関東に着きたりければ、権大夫殿・二位殿・その外大・小名面々に走り出で、「軍は如何に。御悦びか何とかある」と、口々に問はれけり。「軍は御勝利候。三浦の平九郎判官、山田の次郎、能登の守秀康以下みな斬られぬ。御文候ふ」とて大なる巻物差上げたれば、
大膳の大夫入道取りあげて、一同に「あつ」とぞ申されける。中にも二位殿、あまりの事に涙を流し、先づ若宮の大菩薩を伏し拝み参らせて、やがて若宮へ参らせ給ひけり。それより三代将軍の御墓に参らせ給ひて、御悦び申し有りければ、大名・小名馳せ集つて御悦びども申しあはる。その中にも子討たれ、親討たれぬと聞く人、悦びにつけ嘆きにつけて、関東はさざめきののしりあへりけり。
評定あるべしとて、大名どもみな参りけり。一番のくぢは大膳の大夫入道取りたりければ、申しけるは、「院々宮々をば遠国へ流し奉るべし。月卿雲客をば板東へ召し下すべし」と披露して、「路にて皆失はるべし。京都の政は、巴の大将殿御沙汰たるべし。摂籙をば近衛殿へ参らせらるべしと存じ候ふ」と意見を致す。
義時、「この儀一分も相違なし。この儀に同ず」と仰せければ、大名どもも「然るべし」とぞ申しける。やがてこの御返事をこそ書き、一疋相添へて、翌日京へ早馬を立てられけり。去る程に巴の大将殿に、六波羅より此よし申されたりければ、「我当に将軍の外祖にあらず。義時が親昵にあらざれども、正路を守りて、君を諫め申すに依て、憂き目を見し故なり。これも夢なり。然しながら山王に申したりし故なり」とて、大将公経、日吉をぞ仰ぎ奉らる。