承久記 - 30 京方の兵誅戮の事

 山田の次郎重忠は西山に入りて沢の端に本尊をかけ、念仏しける処に、天野の左衛門押寄せければ、自害すべき隙なかりけるに、嫡子伊豆守重継支へつつ、「この間に御自害候へ」と言ひければ、山田は自害して伏せにけり。伊豆の守は生捕られぬ。
 秀康、同じく秀澄、生捕られて斬られぬ。下総の前司盛綱も生捕られて斬られぬ。糟屋、北山にて自害す。天野の四郎左衛門は、首をのべて参りたりけれども斬られにけり。山城守・後藤の判官、生捕られて斬らる。後藤をば、子息左衛門元綱申し請けて斬りてけり。
 「他人に斬らせて、首を申請けて孝養せよかし。これや保元に、為義を義朝斬られたりしに恐れず。それは上古の事なり。先規なかりき。それをこそ末代までの誹りなるに、二の舞したる元綱かな」と、万人つまはじきをぞしたりける。
 近江の錦織の判官代は、六波羅武蔵の守の前にて、佐野の小次郎入道兄弟三人承て、侍にて手取り足取りして斬られぬ。六条河原にて謀反の輩の首を斬るに、剣をさすにいとまあらず。駿河の大夫の判官維信、行方も知らず落ちにけり。
 二位の法印尊長は、吉野十津川に逃げ籠りて、当時は搦め取られず。清水寺の法師鏡月房、その法師弟子常陸房、美濃の房三人搦め取らる。既に斬らんとするところに、「暫く助けさせ給へ。一首の愚詠を仕り候はゞや」と申しければ、「これ程の隙は給はるべし」とてさしおくに、
勅なれば命は捨てつ武の八十宇治川の瀬には立たねど
 このよし武蔵の守に早馬をもて申したりければ、感懐の余り、「赦すべし」とて師弟三人ながら赦されけり。「人は能芸を嗜む可きものかな。末代といひながら和歌の道も頼みあり。泰時やさしくも赦されたり」と、上下感じけり。熊野法師、田辺の別当も斬られにけり。