承久記 - 35 広綱子息斬らるゝ事

 同じき十一日、佐々木の山城の守広綱が子の児、御室にありしが、六波羅より尋ね出だされて向ひしに、御室、御覧じ送り給て、
埋れ木の朽ち果つべきは止まりて若木の花の散るぞ悲しき
 泰時見て、「幽玄の稚児なりければ、助けて参らせ候」と申されければ、母これを聞きて、「七代武蔵の守殿冥加ましませ、命あらん程は祈り申すべし」と、手を合はせて拝みけるに、「皆人、我子を助かる様に覚え候」と悦びけり。
 車に乗りて帰る所に、児の叔父四郎左衛門信綱、急ぎ馳せ参つて、「この稚児を御助け候はゞ、さしもの奉公空しくなして、信綱出家し候べし」と支へ申しければ、信綱は今度宇治川の先陣なり、泰時の妹婿なり。方々もつてさし置き難き仁なれば、五条土肥の小路に使追付きて、「かゝる仔細ある間、力及ばず、泰時を恨むな」とて召し返しけり。
 この事を聞きて、信綱を憎まぬ者は無かりけり。柳原にて、生年十一歳にて斬られけり。例なしとぞ申しける。京都にも限らず、鎌倉にも哀れなること多かりけり。