去る程に、去ぬる廿四日、武蔵の守しづかに院参して、「謀反を進め申され候ひつらん張本の雲客を召し給はらん」と申されければ、院、急ぎ交名をしるし出ださせましましけるぞ浅ましき。
御注文に任せて、皆々六波羅へ搦め出だされ給ふ人々には、坊門の大納言忠信、預り千葉介胤綱。按察使の大納言光親、預り武田の五郎信光。中御門の中納言宗行、預り小山の左衛門尉朝長。佐々木の中納言宗行、預り小笠原の次郎長清。甲斐の宰相中将範茂、預り式部丞朝時。一条の次郎宰相中将信能、預り遠山の左衛門尉景朝。各々礼儀の公卿を辞して、板東武将の家に渡り給ふ。
そもそも八条の尼御台所と申せしは、故鎌倉の右大臣の後室にておはしき。坊門の大納言忠信の卿の御妹なりしかば、この謀反の衆にかりいれられて、関東へ下り給ふを知りて、かねて鎌倉へ御使を奉り給ふ。
「我れ右大臣におくれて、彼の菩提を弔ふよりほか他事なし。光季が討たれし朝より、宇治の落る夕べまで、女の心のうたてさは、昔のよしみ心にかゝり、兄弟をも知らず。君の傾ぶかせ給ふをも忘れて、三代将軍のあとの亡びん事を悲しみて、『南無八幡大菩薩守らせ給へ』と、心の内に祈りて候ひし。この事、忠信の卿を助けんとて偽り申し候はゞ、大菩薩の御慮も恥かしかるべし。数ならぬ身の祈りに答へて、かゝるべしとは思はねども、心ざしを申すばかりなり。然るに慈悲心には、うちたえ知らぬ人をも助け哀れむは習ひなり。如何に況やまさしき兄を助けざるべき。罪の深さはさこそ候らめども、これ然しながら我に許すと思召す可からず。故右大臣殿に許し奉ると思ひなして、忠信の卿の命を助けさせ給へ」と、権大夫殿・二位殿へ仰せられたりければ、「許し奉れ」とて御許し文ありけるに、八月一日遠江の国橋本にて逢ひたりければ、預りの武士千葉介胤綱、この二位殿・義時の状を見て、許し上せ奉る。
按察使の大納言光親の卿これを聞き給ひて、人して御悦び申されたりければ、忠信の卿、「これも夢やらんとこそ覚え候へ」と、返事し給ふも理なり。去る程に八月二日越後の国へ流され給ひぬ。
同じき十日、中御門の入道前の中納言宗行の卿は、菊川にて、「昔南陽県の菊水の下流を汲み齢を延び、今は東海道の菊川の西岸に宿り命を失ふ」とぞ宿の柱に書付け給ふ。同じき十三日、駿河の国浮島が原にて、
今日過ぐる身は浮島が原にてぞ露の命をきり定めぬる
同じき十四日の辰の刻に、相沢といふ処にて、つひに斬られ給ひぬ。
佐々木の中納言有雅の卿は、小笠原具し奉りて、甲斐の国稲積の庄内小瀬村といふ所にて斬らんとす。「二位殿に申したる旨あり。その御返事、今日にあらんずれば、今二時の命をのべ給へ」と宣ひけるを、「ただ斬れ」とて斬りてけり。一時ばかりありて、「有雅の卿斬り奉るな」と、二位殿の御返事あり。宿業力なしとは言ひながら、一時の間をまたずして斬られけるこそ哀れなれ。小笠原も、今二時の命と手を合はせて乞ひ給ふを斬りたるこそ情けなく覚ゆれ。三宝の知恵も知り難く、人望にもうたてしとぞ見えし。
一条の宰相中将信能は、美濃の国遠山にて斬り奉る。同じき十八日、甲斐の宰相中将範茂は、足柄山の関の東にて出家し、晴河といふ浅き河の堤をせきとめて、沈め奉らんとす。
思ひきや苔の下水せきとめて月ならぬ身のやどるべきとは
とて自水せらる。六人の公卿のあとの嘆き、いふも中々愚かなり。



