去る程に、光季も「今日は暮れぬ。明日ぞ討手は向ひ候はんずらん」と思ひければ楯籠る。その夜、家子・郎等並居て評定す。人々申しけるは、「無勢にて大勢に叶ひ難し。私の遺恨にあらず。忝くも十善の帝王を御敵に受けさせ給へり。夜の内に京を紛れ出でさせ給ひて候はゞ、美濃・尾張になどか馳せのべさせ給はざるべき。又は若狭の国へ馳せ越えて、船に召され越後の庄に着きて、それより鎌倉へ伝はせ給へ」と、口々に詮議す。
光季いひけるは、「東へも北へも落つべけれども、人こそ板東に多けれ。光季を頼みて代官として京都の守護に置かれたる者が、敵も敵により所も所による、流石に十善の帝王を敵に受け奉り、処は王城、花の都、弓矢取る者の面目にあらずや。今は関をも据ゑられつらん。憖に落人となりて、此所彼所にて生捕られん事こそ口惜しけれ。義時帰り聞かれんも恥づかし。若党どもの言はん所もやすからねば、光季は一足も引くまじ。落ちんと思はん人々疾々落つべし。恨みもあるべからず」と云ひければ、暫しこそありけれど、夜更けゝれば残り少なく落ちにけり。
思切り止まる者は、郎等に贄田の余三郎・鼓の五郎・飯淵の三郎・大住の進士・山村の次郎・河内の太郎・治部の次郎・うのての次郎・大村の又太郎・金王丸、以上廿七人なり。各々父母・妻子の別れは悲しけれども、年来の誼・当座の重恩、また未来の恥も悲しければ、屍を九重の土に晒すべしとて、留まりけり。
判官の子に寿王の冠者光綱とて十四歳になる者ありけり。判官、「汝は有りとても戦すべき身にもあらず。鎌倉へ下り、光季が形見にも見え奉れ。幼からんほどは千葉介の姉の元にて育て」といひければ、寿王申しけるは、「弓矢取る者の子となりて、親の討たるゝを見捨てゝ逃る者や候。また千葉介も親を見捨てゝ逃る者を養育し候べきや。唯御供仕り候べし」と云ひければ、「さらば寿王に物具させよ」と云ひければ、萌黄の小腹巻に小弓・小征矢を負て出で立たせたり。
光季も白き大口に着背長前に置き、弓二張・箭を二腰副へて出居の間に居たり。白拍子共召し寄せ終夜酒宴し、夜も曙になりしかば、日比秘蔵しける物ども遊君共にとらせつつ帰しけり。
同き十五日午の時に、「上京に焼亡出できたり」とぞ罵りける。また暫しあつて、「焼亡には非ず。これへ向ふ官兵の馬の蹴立つる烟なり」とぞ申しける。既に院より差遣はさるゝ大将軍には、三浦の平九郎判官胤義・少輔入道親広・佐々木の山城の守広綱・弥太郎判官高重・駿河の大夫の判官維家・筑後の前司有信・筑後の太郎左衛門有長、都合八百余騎にて押寄せたり。
館の内には少しも騒がず最後の酒宴して並居たり。贄田三郎申しけるは、「京極西の大門をも高辻西の小門をも共に開いて、両方を防いで最後の合戦を人に見せ候はん」と申しければ、贄田右近申しけるは、「二つの門を開くならば、大勢こみ入りて無勢を以て支へ難し。大門をば差固め、上土門ばかりを開きて、入らん敵を暫し支へて後には自害せん」と申す。この義はよかりなんとて、京極表をば差固め、高辻表計りを開きたり。
兵士ども矢前を揃へて立ち並びたり。一番には平九郎判官、「手の者進めよ」とて閧をつくる。信濃の国の住人志賀の五郎左衛門、門の内へ駈け入らんと進みけるを、判官の郎等藤武者の次郎に膝を射られて退きにけり。山科次郎駈寄つて贄田の四郎に腕射られて引退く。屋島の弥清太郎、贄田の三郎に胸板射させて退きにけり。垂井の兵衛太郎入れかはりたり。内より放つ矢に、馬の腹射られて鐙をはづして、縁の際まで寄せたりけるが、高股射貫れて引いて出づる。西面の帯刀左衛門の尉、射白まかされて退きにけり。
その後押寄せ押寄せ戦へども、打入る者こそ無かりけれ。館の中には少しも騒がず防ぎけり。「上土門をば破り得ず。大門を打破れ」とぞ下知しける。判官これを聞きて、「敵に打破られては見苦し。内より開けよ」と言ひければ、治部の次郎押し開き、「とくとく御入り候へ」とぞ申しける。
兵士ども二手に引分けて待つ処に、筑後左衛門押寄せたり。射白まかされて退きにけり。真野左衛門時連入れかはりたり。内より判官これを見て、「日比の詞にも似ぬ者かな」と詞を懸けゝれば、門の外より蒐入りて馬より下り、太刀を抜き縁の際まで寄せたり。
簾の内より判官の射ける矢に胸板のぶかに射られまろぶ所を、郎等肩に引きかけて出でにけり。平九郎判官車やどりに打ち入りて、「胤義宣旨の御使也。太郎判官に見参らせん」といはれて、簾の際に立寄り、「何と云ふぞわ人ども。君をすすめ奉りて、日本一の大事を起すは如何に。大将軍と名乗りつれば、矢一つ奉らん」とて放つ。胤義が弓の鳥打ち射切りて、並びたる武者に射立てたり。胤義人を進ませて、「思ふ様あり」とて引退く。
「弥太郎判官高重」と名乗りて、門の内へ喚いてかく。「寿王冠者が烏帽子親にておはし候へば、恐れ候へども矢一つ参らせ候はん」とて放つ矢に、高重は射向けの袖に裏かゝせけり。高重引返す。
御園の右馬の丞・志賀の平四郎射られて引いて出づ。内には頼みつるに、贄田の三郎大事の手負うて腹を切る。治部の次郎自害す。宗徒の二人自害するを見て、残る者ども矢は射尽しつ。内へ入つて自害す。敵庭に乱れ入りければ、二十七人籠りつる兵十余人落ちにけり。十人は自害して、判官父子贄田の右近・政所の太郎四人にぞなりにける。
家に火かけて自害せんとする処に、備前の前司・甥の帯刀の左衛門二人駈け入るを、贄田の右近・政所の太郎おり合ひて打ちはらひ帰り入る。二人も手負うて自害して伏しにけり。
寿王丸簾の際に立たりけるを、判官、「敵に取らるゝな。光季より先に自害せよ」と云はれて、物具ぬぎ捨てゝ刀を抜いたりけれども、腹を切り得ざりけり。「さらば火の中へ飛び入りて死ね」と云はれて走り入りつるに、恐ろしくや思ひけん。二三度走り返り走り返りしけるを、判官呼び寄せて膝に据ゑて目を塞ぎ腹を掻き切り、火の中へ投入れて、我身も東へ向きて、「南無鎌倉の八幡大菩薩、光季唯今大夫殿の命に代つて死に候」と申す。三度鎌倉の方を拝して、西に向ひ念仏唱へ腹を切り、火に飛び入つて寿王が死骸に抱付きて伏せにけり。
去程に胤義・親広以下、御所へ参り合戦の次第をぞ奏す。「君も臣も、昔も今も光季程の者こそありがたけれ」と褒められけり。一院「今度勧賞あるべし」と仰せければ、胤義申しけるは、「光季ばかりにて候はゞ尤も然るべく候。義時程の大事の朝敵を置かれて、唯今の勧賞如何に候べき」と奏す。君も臣も、「いしう申したり」とぞ仰せける。
一院仰せけるは、「義時が為に命を捨つるもの東国に如何程ありなん。さすが朝敵と名乗りて後は何程の事あるべき」と、問はせ給ひければ、庭上に並居たる兵士ども、「おしはかり候に、いくばくか候べき」と申しあぐる中に、庄四郎兵衛何がしといふもの進み出でて申しけるは、「式代申させ給ふ人々かな。あやしの者討たれ候ふだにも、命を捨つる者五十人・百人は有る習ひにて候。まして代々の将軍の後見、日本国の副将軍にて候時政・義時父子二代の間、公様の御恩と申し、私の志を与ふること幾千万か候らん。就中元久に畠山を討たれ、建保に三浦を亡ぼしゝより以来、義時が権威いよいよ重うして、靡かぬ草木もなし。この人々の為に命を捨つる者二三万人は候はんずらん。某も東国にだに候はゞ、義時が恩を見たる者にて候へば、死なんずるにこそ」と申せば、御気色悪しかりけれども、後には「式体なき兵士なり」と覚し召し合せられたり。