承久記 - 06 公繼公意見の事

 大将公経父子死罪に行はるべきよし仰せければ、諸卿口を閉づる所に、徳大寺の右大臣公継の申されけるは、「勅命の上は左右に及ばず候へども、後白河法皇の御時、友康と申す前後を知らざる不徳人の者の讒奏に付かせ給ひつつ、義仲を追討せんとせられしが、木曾憤りを含み法住寺殿へ向うて攻め奉る。味方の軍、一時の内に破れて君も臣も亡び給ひき。今また胤義・広綱が讒により、義時を攻めらるべきか。敵を亡ぼさんにつきても、味方の亡びんにつきても、大臣以下納言以上の人、父子死罪を行はれんこと、能々叡慮をめぐらさせ給ふべきか」と、憚る所もなく申されけり。一院「げにも」とや思召しけん、死罪を免めらる。さてこそ鎌倉にも伝へ聞えて、近衛入道殿・徳大寺の右大臣殿両所をば忝きことに申されけれ。