承久記 - 07 方々へ宣旨を下さるゝ事

 光季追討の後は、「急ぎ四方へ宣旨を下すべし」と人々申されければ、中納言光親承りて宣旨を書く。その状に曰く、
左弁官下
  五畿内諸国早く応さに陸奥の守平義時を追討し、身を院庁に参らせ、裁断を蒙ら令むべし。諸国庄園守護・地頭等の事、右内大臣宣す。勅を奉るに、近曾関東の成敗と称し、天下の政務を乱る。纔に将軍の名を帯すと雖も、偏に其詞を仮り、命に於いて恣に裁断を都鄙に致す。剰つさへ威を耀かし皇憲を忘るゝが如し。この政道を論ずるに謀叛と謂ふ可し。早く五畿・七道諸国に下知し、彼の義時を追討せ令めよ。兼て又諸国庄園守護人・地頭等、言上令む可き旨有る者、各院庁に参り、宜しく上奏を経べし。状に随ひて聴断すべし。抑も国宰并領家等、事を綸債に寄せて、更に濫行の綺を致す勿かれ。是厳密にして曾て違越せざる者、諸国承知し、宣に依り之を行ふ可し。
  承久三年五月十五日         大史小槻宿禰謹言
 とぞ書きたる。東国の御使には、御厩の舎人押松丸を下さる。これにつけて人々の内消息多く下しけり。平九郎判官胤義は、私の使を立てゝ内消息を下しけり。十六日の卯の刻に、東西南北五畿七道に綸旨を分けて下され、同き日、南都山門を始めとして、諸寺・諸山の一の悪僧どもを召す。悉く参るべきよし領掌申す。その外、君に志を運ぶ輩、諸国七道より馳せ参ず。美濃の国より西は大略馳せ参じけり。
 東国の宣旨の御使・胤義が私の使、前後を論じて下りけるが、十九日の未の刻に、判官の使、片瀬河より先に立て鎌倉に入りにけり。駿河の守義村が許に行きて、文を差上げたり。急ぎ取りて見るに、「十五日午の刻に伊賀の判官光季討たれぬ。去ぬる十六日卯の刻に、四方へ宣旨を下され候。また東国へ御使下り候なり」とて、日比の本意をぞ書き尽したる。
 義村打ち頷き、「御使下るなるは何処にぞ。片瀬河より先にたちて候ひつれば、今は鎌倉にぞ入り候はん」と申す。「返事をせんと思へども、今は鎌倉より関々も固めらるらん。義村が状とて披見せられんこと難儀治定なり。申されたることはさ心得たりと申すべし」とて、使者を急ぎ返し上せ、時を移さず、使門を出でければ、義村勅命にも従はず、胤義が語らひにも付かず案じすまして、文を持て権大夫殿の許に行向ふ。
 折節侍の見参にて隙間もなき中を分けて差寄りて、「去ぬる十五日御所より討手向うて、伊賀の判官討たれ、十六日卯の刻に宣旨四方へ下さる。東国への御使も唯今鎌倉へ入り候なり。胤義が内消息にて候」とて、引き広げて置きたれば、義時見て、「今まで事なかりつるこそ不思議なれ。宣旨にも東国の者ども一味同心に、義時を討つて参らせよと候らん。人手に懸けずして、御辺の手にかけて、君の見参に入れさせ給へ。近くな寄り給ひそ」とて、かいつくろひ給ひければ、
 「義村、口惜しくも隔てられ奉る物かな。御命に代り奉ること度々なり。元久に畠山を亡ぼさせ給ひし時も、義村身を捨てゝ六郎に組付き、建保に一門を捨てゝ味方に参り候ひき。忠賞一にあらず。幾度も三代将軍の御形見にて渡らせ給ひ候へば、いかでか捨て奉り候べき。全く宣旨にもかたより候まじ。胤義が語らひにも付くまじく候。義村二心を存せば、日本国中大小の神祇、別して三浦十二天神の神罰を蒙りて、月日の光に当らぬ身と罷りなるべし」と、誓請を立てられければ、「今こそ心やすく思ひ奉れ。されば三代将軍蘇生りて渡らせ給ふとこそ見奉れ」とぞ宣ひける。