承久記 - 17 重忠支へ戦ふ事

 京方に尾張の源氏山田の次郎は、味方一人も残らず落行くを見て、「あな心憂や。重忠は矢一つ射てこそ落ちんずれ」とて、杭瀬河の西の端に、九十余騎にて控へたり。
 関東方より小鹿嶋の橘左衛門公成、五十余騎にて馬ばやに真先かけて、河端に打臨みたるが、山田の次郎が旗を見て如何思ひけん、村雲立つてぞ控へたる。
 後の陣に歩ませたる相良の三郎・波多野の五郎義重・加地の丹内・同じく六郎中務・高枝の次郎・矢部の平次郎・伊佐の三郎行政、三十騎ばかりにて馳せ来たるを見て、公成、河に打ちひたす。
 西の端に打上げて詞をかく。「山田の次郎重忠」と名乗つて射合ひけり。山田が郎等の藤兵衛父子・山口の兵衛・荒畑の左近・小幡の右馬允、河へ駈け落されて、陸へ上がりて駈けめぐる。敵引きて西の方へ馳せ行く。
 相良三郎、額を射ぬかれて若党の肩にかゝりて歩く。路に憩みて矢を抜くに、柄ばかり抜けて根は止まる。僅かに五分ばかり尻の見えたるを、石にて打ゆがめて、くはへて引きけれども抜けず。金ばしにて引けども抜けず。相良、「如何にもして早く抜け」とて喚きけり。弓の弦を曲目に結付けて、木の枝にかけて、はね木をもてはねたれば抜けたり。抜けはつれば死ににけり。
 しばらくありて息吹きいだす。「この上は国へ還すべし。但し大将の御目にかくべし」とて、舁いて帰るを聞き、相良眼を見上げて、「口惜しき事をする奴原かな。西へかくべし。死なば宇治川へ投入れよ」と言ひければ、力なくまた舁き上る。
 加地の中務・波多野の五郎・矢部の五郎射られて河原に止りけり。残りは敵を追ひける大将と見えて、兵士ども馳せ行くに眼をかけて落行くを、伊佐の三郎おし並べて組む所に、古き堀のありけるを、敵越えけるとて馬まろびけるに、伊佐が馬も続てまろびけり。山田起きなほつて、「汝は何者ぞ。我は源の重忠なり」。伊佐は「信濃の国の住人伊佐の三郎行政なり」とぞ答へける。「さては恥ある者にこそ」とて、太刀を抜きけるを見て、山田が郎等に藤の兵衛といふ者馬より下り、伊佐の三郎を斬る。三郎尻居にうちすゑられて居ながら、太刀をもて合せけり。
 伊佐が乗替の郎等二人守り居たりけるが、主の既に討たるゝを見て、二人走りよりけるが、敵、太刀を取りなほして討たんとすれば逃げにけり。また主を討たんと寄せければ二人走り寄る。かくの如くすること三四度なり。その後、後より大勢馳せ来たりにけり。山田をば藤の新兵衛馬にかき乗せて落ちて行く。