承久記 - 18 相模の守戦の僉議方々手分の事

 同じき七日、相模の守・武蔵の守、野上の垂井に中一日留まりて、山道・海道二の手を一所に寄せ合せ、路次の兵士ども馳せ集めて、都合二十八万騎になりにけり。関ヶ原といふ処にて合戦の詮議所々の手分けあり。
 武蔵の守申されけるは、「今日は宇治・勢多の合戦こそ終りにてある可く候。寄々軍の僉議も手分け大事たる可く候。駿河の前司殿の御計らひに付き奉る可く候。はゞからず計り給へ」と申されければ、義村申しけるは、「大将の御命により候へば方々免し給へ。北陸道の手は未だ見えず候。勢多の大手には相模の守殿・城の介入道。供御の瀬には武田の五郎一家の人々ども甲斐・信濃の軍勢。宇治へは武蔵の守殿向はせ給ひ候かし。芋洗へは森の蔵人入道殿向はれ候べし。淀の手には義村罷り向ふ可く候」と定め申しけるに、
 相模の守の手に本間の兵衛忠家といふ者進み出でて、「駿河守殿の御計ひ左右に及ばす候へども、相模の守殿の若党、軍なせそとの御事と覚え候。武蔵の守殿を勢多へ向はせ参らせられて、宇治へ相模の守殿を向け参らせらる可くや候らん」とぞさゝへける。「いしくも申すものかな」とぞ聞えける。
 駿河の前司義村申されけるは、「御申しは然る事にて候へども、軍の有無は処にはより候はず、兵の心にはより候へ。また相模の守殿をおき参らせ候て、如何でか武蔵の守殿は勢多へは向かせ給ふべき。且つは私の新議に非ず。平家兵乱の手合せに、木曾を追討せられし時も、兄の蒲の御曹司は大手勢多へ、御弟の九郎御曹司は宇治へ向はせ給ひて候ひき。かの先規、亀鏡にして今まで関東めでたく候へば、義村が私の計らひに非ず」とぞ申されける。
 武蔵の守殿、「今に始めぬ事ながら、この儀に過ぐ可からず」とて、西路へ小笠原の次郎・筑後の太郎左衛門・上田の太郎を始めとして、甲斐の源氏・信濃の国の住人等をさしそへらる。
 小笠原の次郎進み出でて申しけるは、「身を惜むには候はず。関山にて馬ども多く馳せころし、また大炊渡にて手のきはの合戦仕りて、馬も人も攻め伏せて候。事にも逢はぬ人どもを置かれながら、長清を向けられ候事、別の御計ひとも覚え候はず」と申されければ、
 武蔵の守殿宣ひけるは、「傷み申さるゝ処、尤もその謂れ候へども、心やすく思ひ奉りてこそ大事の手には向け奉れ」と宣ひければ、力及ばず、「重ねて辞し申すに及ばず」とて向はれけり。その勢一万五千余騎なり。