去る程に、式部の丞朝時は五月晦日、越後の国府に着きて打立ちけり。北国の輩悉く相従ひ、五万余騎におよべり。京方に仁科の次郎・宮崎の左衛門・糟屋左衛門先駈けて下りけれども、おめずに、加賀の国、林がもとに休みゐて、国々の兵共を召すに、井出の左衛門・石見の前司・保原の左衛門・石黒の三郎・近藤の四郎・同じく五郎、これ等を召しけり。
参らざりけるもの故に、日数を送る処に、宮崎といふ処をも支へず、田の脇といふ処に逆茂木を引きけれども、関東の兵士乱れくひのはづれ、海を游がせて通りにけり。
同じき八日に越中の砺波山を越えくる処に、京方三千余騎を三手にわけて支へんとしけれども、大手、山のあなたに陣を取りて、夜をこめて五十嵐党を先として山を越しける上は、仁科・宮崎、一軍もせずして落ちにけり。糟屋ばかりぞ討死しける。林の次郎・石黒の三郎・近藤の四郎・同じく五郎、弓をはづして関東方へ参る。北陸道の在々所々の京方一堪へもせず、皆落ちにけり。少々相戦ふ輩、首ども道々に斬りかけて上りけり。何れ面を向べき様ぞなき。