承久記 - 20 一院坂本へ御出立の事

 八日の暁、秀康・胤義以下御所へ参りて、「去ぬる六日大豆戸を始めて皆落ち失せ候。また杭瀬河よりほか、はかばかしき軍したる処も候はず」と申しければ、君も臣もあわて騒がせ給ひき。唯今都に敵打入れたるやうにひしめきけり。
 一院は、「合戦の習ひ、一方は必ず負くるなり。さればとて矢も射ぬ事やはある。今は世はかうにこそ。なまじひの軍せんよりは、山門に移りて三千人の大衆を頼みて、我は相綺はぬよしを、関東へ怠状せん」とぞ仰せられける。即ち叡山へ御幸なる。
 御勢千騎ばかりありしかども、用に立つべきもの一人もなかりけり。都には君も臣も武士も見えず。関東の勢も未だ参らず。あきれて居たるけしきなり。巴の大将・子息実氏召し具せらる。二位の法印尊長、腹巻に太刀はきて、「世みたれば大将の父子討たん」とておし並べて目を付け、太刀を抜きかけて歩ませけれども、一院、御目も許しましまさねば、ひきのけひきのけす。
 中納言大将につかみつきて、「法印が気色はしろしめして候か。最後の御念仏候べし。また現世を思し召さば御祈念も候べし。敵をば取りて参らすべし。御心強く思し召さるべし」と宣へば、公経も「心得たり」と宣へども、悪くぞ見え給ひける。「日吉山王今度ばかり助けさせ給へ」と、心の中にぞ祈念し給ひける。法印、大将に打並び給ふ時は、中納言、中へ打ちいり給ひけり。父には似ず能くぞ見えさせ給ひける。