主上上皇は、西坂本梶井の宮にいらせ給ふ。座主大僧正承円参らせ給ひ、「内々御気色も無く御幸の条、末代の御誹りをも受けさせ給ひぬと覚え候。口惜しくも候ものかな。用にも立ち候べき悪僧どもは、水尾が崎・勢多へ向ひ候。急ぎ還御なりて、宇治・勢多を支へて御覧候へ。さりとも神明も御助け候はんずらん」と、泣く泣く申されければ、「げにも」と思し召し、十日四辻殿へ還御なる。
都には又悦びあへり。「いま一度支へて御覧あるべし」とて、美濃の竪者観厳、水尾が崎の大将なり。その勢一千余騎。勢多の橋には山田の次郎・伊藤の左衛門の尉、大将軍にて、三塔の大衆をさし添へらる。その勢三千余騎。供御の瀬には前の民部の少将入道・能登の守・平九郎判官・下総の前司・後藤の判官、西面の輩相添へ二千余騎。鵜飼の瀬には、長瀬の判官代、河原の判官代一千余騎。宇治には佐々木の中納言・甲斐の宰相中将・右衛門の佐・大内の修理大夫・伊勢の前司清定・小松の法印・佐々木の山城の守弥太郎判官、西面の輩、二万余騎。槙の島には足立の源左衛門の尉。芋洗には一条の宰相中将・二位の法印尊長、一千余騎。淀には坊門の大納言忠信、一千騎。広瀬は阿野の入道五百余騎、都合御勢三万三千騎とぞ聞えける。
十三日官軍手々に向ひけり。南都の大衆召されけり。山門の大衆をば宇治にさし向け、南都の衆徒をば勢多へ向へらるべきよし、「けんしつ既に治定する処に、遅参いか躰の事ぞや」と、宣旨重ねて下さる。僉議しけるは、「治承四年に我が寺平家の為に滅ぼされしを、頼朝これを悲しみて、寺の敵重衡の卿を渡さるゝのみならず、供養の期に至るまで、随分の心ざしを当寺に致されき。私の事においては評議に及ばず。関東を見つぐべき事なれども、これは勅状忝き事なれば、それまでは無し。関東を打たんこと定めて仏意にもそむくべし。ただ何方へも参らざらんにしかじ」とて、勢多へも向かはざりけり。
然れども悪僧の申しけるは、「この度我等さし出でざらん事、山門の衆徒の後に言はんこと堪へ難し。日比弓矢たしなむ輩は、少々駈け出でて軍せばや」といひて、但馬の律師・讃岐の阿闍梨以下、平等院の律師らも五百余人向ひけり。