承久記 - 22 勢多にて合戦の事

 同じき十三日に相模の守・武蔵の守野路につき、十四日相模の守勢多へ寄せて見れば、橋板二間引きて、南都の大衆ども、板東の武士を招きけり。宇都宮の四郎遠矢に射る。武蔵国の住人北見の太郎・江戸の八郎・早川の平三郎押寄せて、射しらまかされて退きにけり。村山の太郎・奈瀬の左近・吉見の十郎・その子小次郎・渡の右近・同じく又太郎兵衛・横田の小次郎も、敵隙もなく射ければ退きにけり。中にも熊谷・久米・吉見父子五人、橋桁を渡りて寄せたりけり。奈良法師二重の掻楯にひきのく。
 大将山田の次郎使を立て、「如何に大衆むげに小勢に追はるゝぞ。鬼神とこそ頼みつるに」とぞ笑ける。大衆言ひけるは、「逃るに非ず。敵を深く引きいれて、一人も洩さじとするぞ」と云ひもあへず、鳥の木の枝をかけるやうに、廿三人斬つてまはる。
 熊谷猛く思へども、薙刀にあひしらひかねて討手に入る。板東方、「熊谷討たすな」と喚きけれども、橋桁は狭し、寄る者ぞなかりける。熊谷、播磨の律師と組んで首をとらんとする処に、播磨が小法師に菊珍、熊谷を打つ間に、但馬の律師落合ひ、熊谷が首を取る。熊谷を始めとして七人、目の前にて討たれにけり。
 吉見の十郎・久米ばかりは遁れてけり。吉見が子十四になるを、肩にかけて帰りけるを、敵稠く射るを叶はじとや思ひけん、子を河に投入れて続いて飛び入りて河底にて物具ぬぎ、大将の前に赤裸にてぞ出で来たる。
 久米の右近、射すくめられて立たるを見て、平井の三郎・長橋の四郎、矢面を防ぎ、久米を助けゝり。宇都宮の四郎、二日路下がりたるが、勢待ちつけて三千余騎になりにけり。二千余騎をば父につけて、一千余騎相具して行きけるが、敵に扇にて招かれて腹を立て、僅かに五六十騎勢多の橋へ出来て散々に射る。京方よりも雨の降る如くに射けり。一千余騎遅ればせに着きにけり。
 熊谷の小次郎左衛門直家は、頼みたる弟討たれて、死なんとぞ振舞ひける。馬を射させじとて、矢の及ばぬ所に引き退けゝり。信濃の国の住人福地の十郎俊政と書付けしたる矢を三町余射越して、宇都宮の四郎が鉢付の板に、したたかに射立たり。宇都宮、安からず思ひおきあがり、宇都宮四郎頼成と矢じるしたるを射て、河端に立ちて能く引き放つ。河をすぢかひに三町余を射こして、山田の次郎が居たる所へ射渡す。水尾が崎固めたる美濃の律師が手の者ども、船に乗りて河中よりこれを射る。その中に法師二人、宇都宮に射られて引退く。これを見て相模の守、平六兵衛を使として、「軍は必ず今日に限るまじ。矢種な尽させ給ひそ」と仰せられければ、その後は軍もなかりけり。この一両日はもとより降りける雨、十三日の日盛りより車軸の如し。人馬濡れしを垂れ、雑人働かず。