承久記 - 23 宇治橋にて合戦の事

 同き十四日、武蔵の守宇治に寄せけるが、日暮れければ田原に陣を取る。酉の刻に、駿河の守、淀へ打ち分るゝ所にて、「駿河の次郎は、義村に打具せよかしと思ふ」といひければ、「鎌倉より武蔵の守殿につき申しては、ただ今御供仕り候はねば、親子の中とは申しながら、無下に心なきやうに覚え候。三郎光村付き奉り候へば、心安くは思ひ奉り候」と言ひければ、駿河の守うち首肯いて、「さもある事なり」とぞ申しける。
 泰村は二百余騎にて足利につき、山より父に打別れ、宇治の軍の先を駈けんとや思ひけん、尾張河にて足利、軍よくしたりければ、泰村、心地悪しく思ひけるを、足利殿も心得て、泰村に打連れ打連れ歩ませけり。
 泰村が郎等に、佐野太郎・小河太郎・長瀬三郎・東条三郎十四五騎打立つて、「雨の降り候に、宇治に御宿取りて入れ奉らん」とて行く。泰村心得て、「若党ども先に立ち候ふが覚束なく候」とて、武蔵の守殿へ使者を立てゝ馳せ行く。
 義氏も「やがて参る」とて打立ちけり。泰村路に逢ふ人に、「宇治に軍や始る」と問ひければ、「十五六騎、橋に馳せつきて只今軍にて候」と言ひければ、「さればこそ」とて馳せて行く。
 先立ちたる若党ども馬より下り、「桓武天皇より十三代の苗裔、駿河の次郎平の泰村、宇治の先陣也」と名乗つて戦ひける所に、泰村馳せ寄りて戦ふ。郎党ども力ついていよいよ戦ひけり。足利武蔵の前司遅れ馳せして来たり、「宇治の手の一番也」と名乗りて、泰村が旗の手同じ頭に打立てゝ戦ふ。
 京方、橋の板二枚引きて、山門の大衆三千余人、十重二十重に群集して、橋の上にも下にも兵船三百余艘、波をうがつて三方より射る間、堪へつべうぞなかりける。駿河の次郎、馬より下り立つて三方を射る。小河の左衛門といふ郎党等、「大将手をくだき戦ふ事や候」と制しけるが、泰村が矢に敵の騒ぐを見て、「さらばここ射給へ、あそこあそばせ」といひけり。
 熊野法師・小松の法印五十余騎にて来たりけるが、射ちらされて引き退く。板東方も多く討たれ手負ひければ、足利も駿河の次郎も引退きて、平等院に籠りければ、敵いさゝか悦びて、還て河をも渡しぬ可く見えたり。
 義氏、武蔵の守の許へ使者を立てゝ、「大手に待ち受けて、明日軍仕らんと存じ候処に、駿河の次郎が若党共、左右なく軍をはじめて候間、義氏も戦ひて、若党あまた討たせ手負ひ数多く候。平等院に籠りて候が、無勢と見て寄せられぬ可く覚え候。勢をさしそへられるべきよし」申されければ、武蔵の守大きにおどろきて、「明日の合図をたがへ、この師を仕損じぬるにこそ。今夜前よりわたされ、背後より奈良法師・吉野十津川の者ども、夜討に駈けんと覚ゆるなり。平兵衛、今夜宇治へ馳せ寄せ、平等院を固むべし」と触れられけれども、「雨は降り、案内は知らず。如何向ふべき。明日こそ供御の瀬に参り候はめ」と、口々に申して一騎も進まず。
 佐々木の四郎左衛門信綱ばかりぞ「向ひ候はん」と申しける。平等院には「敵を捨てゝ引退くに及ばず」とて、義氏・泰村堪へたり。武蔵の守「兵どもを催し、かねて敵をこの方へ渡させて、この人どもを討たせては師に勝ちても詮なし。泰時ここなり」とて駈け出で給ふを見て、一騎もとどまらず、十八万余騎同時に打立ち馳せゆくに、雨車軸ばかりなり。
 兵ども眼を見開かず、弓を取る手もかがまりけり。「天の責めを被るにこそ。十善の帝王に弓をひくにや」と、心細くぞなりにける。平等院の方より雷電しきりにして、身の毛よだつばかりなり。大将軍泰時ばかりぞ、少しも恐るゝ気色なし。あつぱれ大将やと見えし。
 平等院に駈入りて、「覚束なき間、来たり」と宣ひければ、足利も駿河の次郎も手を合せてぞ悦びける。京方無勢と見えしかば、波多野新兵衛の入道、馬もなし、下人もなく手づから旗差して、大将山田の次郎の御前に進み出でて、「兵ども少々向へ渡し、敵討払ひ平等院に陣を取るならば、志ある者ども、などか味方につかざるべき」と申す。「それは然るべし」とて下知すれども、惟義・光貞・弘経・高重など、兵衛の入道を頼みて、「軍すべきにあらず」とて領掌せず。
 同き十四日卯の一点に、「足利武蔵の前司義氏・駿河の次郎泰村」と名乗つて、また橋詰に寄せて引退く。関の右衛門入道・若狭の兵衛の四郎・指間の四郎・布施の中務・相馬の五郎・梶の権次郎・塩屋の民部・同じく左衛門・新関の兵衛・中江の四郎、押寄せて射伏せらる。
 その中に波多野の五郎、馬手の眼射抜かれて矢を立てながら、大将の御前にぞ参りたる。「杭瀬河の額の疵だにも神妙なるに、誠に有難し。鎌倉の権五郎再誕か」と褒め給ひて、「軍功は泰時証人なれば疑ひなし」とぞ宣ひける。高橋の大九郎・宮寺の三郎・角田の左近・末名の右馬の助・高井の小五郎・大高の小五郎、駈け出で、面々に手負うて帰りけり。
 「塩屋の左近家朝」と名乗つて出づる所に、山法師ども散々に射る。左近、足を橋桁に射付けられて立ちたり。「あな口惜し」とて、子の六郎矢面に戦ふまに、矢を抜かんとするに抜けず。太刀にて矢の立ちたる足を二つに切り割りて引き抜き、肩に引きかけて退きにけるを人々感じける。
 成田の兵衛、これも手負うて引退く。山の僧覚心・円音、橋の上にて薙刀振り回してぞ振舞ひける。「あれ射よ」と罵りけり。円音、足を橋に射つけられて抜けざりければ、薙刀にて足首よりふつと打ち切りて、いよいよ鳥の如くにかけりて狂ひけり。
 武蔵の守、安東の兵衛忠家を使として、「橋の上の軍やめられ候へ。かやうならば日数をおくるとも、勝負ある可からず」と仰せられければ、罷向うて「大将の仰せなり」と叫べども、雨は降り、河音・打物の音一方ならざりければ、聞きもいれず。安東も乱れ入りてぞ戦ひける。
 武蔵の守見給ひて、「結句安東も軍するござんなれ」とぞ笑ひ給ひける。平六兵衛と言ふ者を以て、重ねて使に立てられて、「わ君も二の振舞ひするな」と言はれて、手をたたいて制すれども、耳に聞入るゝ者なし。いよいよ乱れ合ひて戦ふ。平六兵衛力及ばずして帰りけり。
 尾藤の左近の将監景綱、鎧をば脱ぎおきて小具足ばかりにて、「軍をば誰を守りてし給ふぞ。橋の上の軍は御誡めなり。この後軍せん人は、大将の御命を背かるゝ上は敵なり。かう申すは、尾藤の景綱なり」と申して帰りければ、その後しずまりけり。