二番に打入る輩は、佐野の与一・中山の五郎・溝の次郎しけつき・臼井の太郎・横溝の五郎祐重・秋庭三郎・白井の太郎・多胡の宗内七騎打上がる。三番に小笠原の四郎・宇都宮の四郎・佐々木の左衛門太郎・河野の九郎・玉の井の四郎・四宮の右馬丞・長江の与一・大山の次郎・敕使河原の次郎、これも相違なく打上ぐる。
安東の兵衛、渡瀬に臨んで見けるが、「身方は多く渡しけり。下頭にて渡瀬も遠し。三段ばかり下、少し狭みにさしのぞき、爰の狭み渡すならば、直ぐにてよかりなん」と、三十騎ばかり打入れけるが、一目も見えず失せにけり。
河の狭きを見て、安東が渡しければ、先陣の失するをも知らず大勢打入れけり。阿保の刑部の丞実光・塩屋の民部家綱、「今年八十四、惜しからざる命かな」とて、打入れけり。一目も見えず失せにけり。
関左衛門入道・佐嶋の四郎・小野寺中務・若狭兵衛の入道、これも又とも見えず。この中に佐嶋の四郎は馬も強し、死ぬまじかりけるを、帯刀の関入道、弓手の袖に取付くと見えしが、二人ながら見えず。
四番に布施の左衛門次郎・太山の弥藤太・秋田城の四郎・周防の刑部の四郎・山内の弥五郎・高田の小次郎・成田の兵衛・神崎の次郎・科河次郎・相馬の三郎子供三人・志村の弥三郎・豊島の弥太郎・物射の次郎・志田の小次郎・佐野次郎・同じく小次郎・渋谷の平三郎以下二千余騎、声々に名乗つて渡しけるが、一騎も見えず失せにけり。
五番に平塚の小太郎・春日の太郎・長江の四郎・飯田の左近将監・塩屋の四郎・土肥の三郎・島の平三郎・同じく四郎太郎・同じく五郎・平の左近の次郎、都合五百余騎打ち入れて、二目とも見えず。
六番に覚島の小次郎・対馬の左衛門次郎・大河戸の小次郎・金子の与一・同じく小太郎・讃岐の左衛門の太郎・井原の六郎・飯高の六郎・斎藤の左近・今泉の七郎・岡部の六郎・糟屋の太郎・飯島の三郎・肥前坊、三百余騎も沈みけり。
七番に荻野の太郎・尾田の橘六・宮の七郎・岡部の弥藤太・城介三郎・飯田の左近・飯沼の三郎・櫻井の次郎・猿沢の次郎・春日の次郎子二人・石川の三郎、都合八百余騎渡しけるも、またとも見えず失せにけり。
武蔵の守これを見給ひて、「泰時が運既に尽きにけり。帝王に弓を引き奉る故なり。この上は生きても有る可からず」と、手綱掻い繰り馳せ入らんとし給ふ処に、信濃の国の住人春日の刑部の三郎さだゆきと言ふ者、子供二人は先に流れて死ぬ。我身も失す可かりつるを、弓をさし出だしたるに取付きて助かり、二人の事を思ひて泣き居たりけるが、武蔵の守殿、既に河に打入れ給ふと見て、「あな心憂や」とて走りより銜に取付きて、
「こは如何なる御事候ぞ。身方の軍兵、今河に沈むといへども三千騎の内外なり。十が一だにも失せざるに、大将命を捨て給ふことや候べき。人こそ多く候へども、大夫殿頼むと候ひつるものを、若しこの大勢を置きながら、この大悪所に打ち入れて、みすみす死なせ給はん事、実に口惜しかりぬべし。幾千万の勢候ども、君死なせ給はゞ、皆京方につき候ひなん。これ却つて御不覚なり。さこそ心細き人候らめども、君の御旗をまぼりてこそ候らめ」と、馬の口に取付くを見て、武蔵の守の者ども一二千騎、前に馳せふさがりて控へたり。
義時、この事後に聞き給ひて、「春日の刑部、子共二人失ふのみならず、泰時が命をつぎたるものなれば、今度の第一の奉公の者なり」とて、上野国七千余町賜りけり。
武蔵の守泰時の子息小太郎時氏、父渡さんとするが、人にとめらるゝと見て、河に打入れんとするを、「安房国の住人佐久目の太郎家盛なり」と名乗りて、馬の銜にむずと取付き、大力の者なれば馬も主も動かず。「大夫殿人こそ多く候へども、見放し申すなと仰せ給ひし」と申しければ、太郎殿腹を立て、「何条去る事有る可き。親の控へ給へるだに口惜しきに、二人この河を渡さずしては、板東の者、誰を見て渡すべきぞ。悪い奴かな」とて、鞭を以て佐久目が面、取付きたる腕を打ち給ひける。
「家盛、さかしき殿の気色振舞かな。ゆるすまじ」とて指しつめたり。いよいよ腹を立ち打ち給へば、「家盛、わ殿の事を思ひ奉りてこそすれ。さらば如何に成果て給はむとも、心よ」とて、馬の尻を礑と打つ。何かは堪るべき、河に打入れけり。佐久目腕は打たれて痛けれども、「見捨つるに及ばず。続くぞよ」と打入れ進み渡しける。
万年の九郎秀幸「同じく参り候」とて打入れけり。「相模の国の住人香河の三郎生年十六歳」と名乗りて打入る。武蔵の守これを見て、「太郎討たすな。武蔵・相模の守の殿原は無きか無きか」と宣へば、一騎も残らず打入れける。廿万六千余騎声々に名乗りて渡しけり。一騎も沈まず向の岸に打ちあがる。
さる程に駿河の次郎泰村これを見て、「今まで下がりけるこそ口惜しけれ」とて、小河の右衛門取付きて示しけれども渡しけるを、泰時使者を立てゝ、「これにこそ候へ。これへ渡り候へ」と宣へば、泰村も一所に控へけり。
「足利殿も一所に御入り候へ」と申されければ、家の子・郎等はみな河へ打入れさせて、これも扣へてぞおわしける。香河の三郎、向ひに早や着きて敵におしならべて組んで落ちにけり。十六歳の者なりければ下になる。香河が家人上なる敵の首を取る。「小河の次郎、新手なり。駈けよ」と、武蔵の太郎に言はれて、真先駈けて戦ひけり。「あまり乱れ合ひて、敵も味方も見えず」と言ひければ、「味方は河を渡りたれば、楯濡れたるを印にせよ」と、武蔵の太郎に下知せられて、落合ひ落合ひ組んだりけり。