承久記 - 26 宇治の敗るゝ事

 京方の大将佐々木の中納言有雅の卿・甲斐の宰相中将を始めとして、一騎も控へず落ちにけり。卿相には右衛門の佐、武士には佐々木太郎衛門尉・筑後の六郎左衛門朝直・糟屋の四郎左衛門・荻野の次郎・同じく弥次郎左衛門ばかりなり。
 武蔵の太郎、中将の甲のはちを射拂ひて、後の頚に射立てたり。薄手なれば遁げのぶ。また京方右衛門の佐朝俊、させる弓矢取りて、朝家に忠を致すべき身にもあらぬが、望み申して向ひけり。大勢に向ひて「朝俊」と名乗りて駈けゝれば、取りこめて討つてけり。仕出だしたる事はなけれども、申しゝ詞ひるがへさずして、討死しけるこそ哀れなれ。
 次に筑後の六郎左衛門有仲、敵の中をかけ分けて落ち行く。次に荻野の次郎落行きけるを、渋江の平三郎おして並べて組んで落ち、荻野が首を取る。
 次に弥次郎左衛門落ち行きけるを、陸奥国の住人宮城野の小次郎生年十六歳と名乗りて、弥次郎左衛門と組みけるに、弥次郎左衛門が乗替打つてかゝり、宮城野、「今はかう」と思ひける処に、身方三百騎ばかり馳せけるが、いかなる者が矢とは知らず、耳の根を射ぬく。その間に宮城野の次郎左衛門が首を取る。
 小河太郎、京方より出来たる能き敵を、目にかけ組まんとする所に、敵、太刀を抜いて討つに、目くれて組んで落つ。起き上がりて見れば、我身組んだる敵の首は人とりて無し。「いかなる者なれば人の組たる敵の首取りたるぞ」と呼りければ、「武蔵の守殿の手の者伊豆の国の住人平馬太郎ぞかし。わ殿はたぞ」。「駿河の次郎の手の者小河太郎経村」といひければ、「さらば」とて返す。小河これを請とらず。後にこのよし申しければ、平馬の僻事なり。小河の高名にぞ成にける。
 山城の太郎左衛門駈けめぐるを、佐々木四郎左衛門が手に取りこめて生捕りけり。去る程に板東方の兵ども、深草・伏見・丘の屋・久我・醍醐・日野・勧修寺・吉田・東山・北山・東寺・四塚に馳せ散らす。或は一二万騎或は四五千騎、旗の足をひるがへして乱れ入る。三公・卿相・北政所・女房局・雲客・青女・官女・遊女以下に至るまで、声を立てゝ喚き叫び立ち迷ふ。
 天地開闢より王城洛中のかゝる事、いかでかありし。かの寿永の昔、平家の都を落ちしも、これ程はなかりけり。名をも惜しみ家をも思ふ重代の者どもは、ここかしこに大将にさし遣はされて、或は討たれ或は搦めとらる。
 その外は青侍・町の冠者原向ひつぶて印地などと言ふ者なり。いつ馬にも乗り軍したるすべも知らぬ者どもが、或は勅命に駈り催されて、或は見物の為に出で来たる輩ども、板東の兵に追ひつめられたる有様、ただ鷹の前の小鳥の如し。討ち射殺し首を取ること若干なり。
 板東の兵、首一つ宛つ取らぬ者こそなかりけれ。大将軍武蔵の守・駿河の次郎・足利殿は、船にておし渡る。信濃の国の住人内野の次郎、宇治橋の北の在家に火を掛けゝり。その煙天に映じて夥し。淀・芋洗・広瀬、その外の渡々にこれを見て、一師もせず皆落ちにけり。駿河の前司・森の入道・野山の左衛門は、或は船に乗り或は筏を組みて押し渡る。淀一くちとうの要害を破り、鳥羽の高畑に陣を取る。
 宇治橋の河端に斬り掛けたる首七百三十なり。これを実検して、武蔵の守・嫡子時氏・有時など親しき人々、僅かに五十余騎にて深草河原といふところに陣を取る。夜に入りて「武蔵の守、これにこそ」と、駿河守のもとへ使を立てゝ申されければ、泰村、子二三人うち具して武蔵の守の陣に加はりけり。
 勢多・宇治・水尾が崎落ちぬと聞えしかば、一人も軍する者なく、皆落ち失せにける。南都北嶺の大衆も落行きけり。当日の大衆、高声に念仏申して、「哀れなりける王法かな」と、高らかに口ずさび、泣く泣く本山本山に帰りけり。