承久記 - 27 秀康・胤義等都へ帰り入る事

 京方、能登の守・平九郎判官・下総の前司・少輔入道、所々の戦に打負けて都に帰りいる。山田の次郎も同じく京へ入る。同じき十五日卯の刻に、四辻殿に参りて「秀康・胤義・盛綱・重忠こそ、最後の御供仕り候はんとて参りて候へ」と申しければ、一院、如何になるべき身とも思し召れぬところへ、四人参りたれば、いよいよ騒がせ給ひて、「我は武士向かはゞ、手を合はせて命ばかりをば乞はんと思し召せども、汝等参り籠りて防ぎ戦ふならば、中々悪しかりなん。何方へも落行き候へ。さしもの奉公、空しくなしつるこそ不便なれども、今は力及ばず。御所の近隣にある可からず」と仰せ出だされければ、各々の心の内いふも中々愚かなり。
 山田の次郎ばかりこそ、「されば何せんに参りけん。叶はぬもの故、一足も引きつるこそ口惜しけれ」とて、大音声をあげて門をたたき、「日本第一の不覚。人を知らずして浮き沈みつる事の口惜しさよ」と、罵りて通るぞ甲斐もなき。
 各々言ひけるは、「今は二つなし。大勢に馳向ひて戦ひて、もし死なれぬものならば、自害するほかは別の儀なし」と申しければ、各々「この儀に同ず」とて、また取て返す。四人の勢三十騎ばかりなり。
 平九郎判官申しけるは、「同じき宇治の大手に向ふべきを、宇治・勢多大勢に隔てられては、雑兵にこそ打ちあはんずれ。これより西、東寺は良き城郭なり。ここに立て籠り候はゞや。駿河の守は淀の手なれば東寺を通らんずるに、よき軍して死なんと思ふぞ」と言ひければ、また「この儀然るべし」とて、東寺に馳せつき、内院には入らず。総門の外釘貫の中に陣を取る。高畠に控へたる三浦の介・早原の次郎兵衛の尉・甥の又太郎・天野の左衛門・坂井の平次郎兵衛の尉・小幡の太郎・同じく弥平三など聞こゆる者ども、三百余騎喚いて駆く。
 その中に早原の次郎兵衛・天野左衛門は、平九郎判官と見て、眼前親昵なりければ控へてかゝらざりけり。弓矢取る者も礼儀はかくぞある可きに、早原の太郎仔細をば知らず、父控へたるを心地悪しくや思ひけん。名乗りて押寄せたりけり。
 胤義言ひけるは、「さこそ公の軍と言ひながら太郎無礼なる者哉。景義洩すな」とて、高井を始めとして中にとりこめられて、馬手の田中へ駈け落とされけり。馳せあがらんとする所に、弓手・馬手より攻めければ馬より落ち、徒歩になりてぞ戦ひける。景義が甥平兵衛・嫡子兵衛の太郎・角田兄弟命を捨てゝ、景義を後におしなし戦ひけり。叶はずして胤義引返す。
 これを始めとして関東の勢、一面に喚いて駆く。作道を我先にと押寄せければ、秀康・盛綱は如何思ひけん、矢一も射ず、北を差して落ち行く。山田の次郎ばかりぞ、支へ箭少々射て、それも跡目につきて落行きけり。今は平九郎判官ばかりなり。
 胤義は東寺を墓所と定めければ、「自余の者、それは落ちも失せよ。一足も退くまじ」とて入替へ戦ひけり。されども大勢しこみければ、心は猛く思へども、なまじひに一切れにも死に終らず、東を指して落行きけり。角田の平二祐親すくやか者なり。胤義に目をかけて、押並べて組まんとしけるが、祐親叶はじとや思ひけん。胤義が乳母子上畠、馳せ通りけるに組んで落ちにけり。
 祐親が乗替落合ひて首を取る。胤義これを知らずして、弥太郎兵衛、ただ三四騎になりて東山を心ざして落ちて行く。次郎兵衛・高井の兵衛の太郎、これも東へ落ちけるが、六波羅の蓮華王院に馳せ入り、小竹の内にて二人念仏唱へて、刺し違へて失せにけり。胤義は心ざしつる東山に馳せ入りて、物具ぬき捨てゝ休みけり。